私は本当に主を信じているのでしょうか・・・【ローマ10:14-17】

2022年

しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

ローマ10:14-17

先日、「私は本当に主を信じる事ができているのだろうか・・・?」

という疑問が湧き起こりました。

 

知り合いのクリスチャンの方が「最近、息子(高校生)が教会に行かなくなった、、」「誘ってるんだけどね。全く違う方向見てるみたい。でも、まあ、時が来たら、戻ってきてくれるんじゃないかと思って、本人に任せてるの」と言ってました。

そっかぁ~と「高校生って難しい時期だよね」と思いつつ、何かが違うような気がしました。

何が違うのかよく分からず、悶々としてたら、ある場面を思い出しました。

母教会に通っていた時の青年部の男の子です。

彼は、常に大きな声で賛美をし、大きな声で祈り、伝道もよくしていました。いつも「感謝」と言う言葉が口から出ていました。信仰的に落ち込んだ姿を見たことがありませんでした。

数年、同じ教会の青年部で過ごしたのですが、途中で私は韓国に留学したり、彼は大学を卒業し地元に帰ったりで、なかなか会う機会がありませんでした。

月日が過ぎて、10年後くらいに一度再会しました。牧師先生になられていました。

久しぶりの再会なので、一緒に食事をし、お茶をしました。そして彼は食事前は、結構大きめの声で祈ってから食事をし、食事が運ばれて着たら、すかさず店員さんにトラクトを渡し伝道します。「私、キリスト教会の牧師なのですが、教会には行かれた事ありますか?」から始まり、結構長く話されます(笑)

店員さんは、もちろんちょっとビックリされてるし、無視するに無視できないと言った感じで逃げ腰になっているのを感じました。

私は「相変わらず~(笑) 変わってないね~と言うよりパワーアップしてる感じ(笑)」と言うと

「だってさ、今の人って、多分もう会う事ないでしょ。今、会ったのが初めで最後だと思うよ。もしかしたら、僕が今、伝えないと一生、福音を聞かずにこの世を去るかもしれないでしょ。」と言われていました。

という会話を急に思い出しました。

「あー-これかも!」と思いました。私は、この牧師先生のように、出会う人出会う人に積極的に伝道出来ません。外で食事をする時も、小さい声で祈っています。

この先生の伝道は、凄くハードルが高く、なかなか出来る人は少ないんじゃないかと思う伝道だと思いますが、私とこの先生と何が違うかと言うと、「必死さ」だと思います。

私はこの先生を見る度に「パウロもこんな感じで伝道してたんじゃないか・・」と思います。

もしも、目の前に自分の大切な人の命が危ない状態になったら、私は「必死に」伝道すると思います。最後に私に出来るのは、主を伝えるという事しかないから。

それが自分の子どもなら尚更です。残された「最後の時間」が少ないと身を持って感じたら必死になります。

「お願いだから、イエスさまを信じて! 罪赦されて天国に行って欲しい!! お母さんはあなたと天国で再会したい・・」って訴えますよね。

絶対に、「イエスさまを信じるかどうか、あなたの判断に任せる」とは言わないと思います。

「いつか教会に戻ってきてくれると思う。今は、子どもの判断に任せてる。」と思えるのは、身の危険を感じていないから。

今、高校生のこの子は問題なく、18歳になって、当たり前のように20歳になって、当然のように30歳になって・・・と思っているからです。

私も、知り合いのクリスチャンの方も、

まだまだ時間があると思っているからです。

でも、時間があるかどうかって、分からない事ですよね。

もしかしたら、「最後の時間」が与えられていない可能性もあります・・・

だから、皆さん、この牧師先生のように必死になって伝道しましょう!!とは言いにくいし、「よし! 今日から私も出会う人出会う人、伝道しよう!!」とは言えないのですが・・・

今は死なないと思っている自分の命、大切な人の命・・・

天に召されるのは、もっと先だと、自分勝手に思い込んでいるだけだという事を、私たちは記憶しないといけないと思いました。

この牧師先生のように「今、出会った人って、多分もう会う事ない。今、会ったのが初めで最後だかもしれない。」と、「最後の時間」だと切実に感じていたら、この先生のように必死になるのかも。。。

もしも、天国で、主の前に、この牧師先生と私が並んで立って、、、

主が私に「あなたは本当に私を信仰していましたか?」と質問されたら、私は困ってしまうように思います。

言葉を探して探して、「・・・私なりに・・・」と答えそうな気がします💦

みなさんは、どうですか?

天国で主にあって「あなたは本当に私を信仰しましたか? あなたは本当に私を愛しましたか?」と聞かれたら、なんて答えれそうですか?

 

それと気を付けないといけないなと思った事が、もう一つ・・・

「時が来たら、戻ってきてくれるんじゃないか・・」と時折、聖書を引用します。(詩編1:3)

私も、色々な御言葉を引用する事があります。

でも、もしかしたら、自分に都合よく引用しているかもしれません。

「時が来たら、戻ってきてくれるんじゃないか・・」っていうのは、多分、神さま任せのようにも感じます。

もし、この息子さんの為に、必死に必死に祈っていたら、もう少し違うセリフが口から出そうな気がします。

自分も含め、自分の都合のいいように、御言葉を当てはめないように気を付けないと・・・

今日も、主の中で満たされてください。

私は、今日、伝道出来るしもべとなれるように、祈ります!

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