子育ては牧会【詩篇119:105】

2022年

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

詩篇119:105

子育て中のママさん、パパさん、お疲れ様です!

日々、休む間もなく大変ですよね。気が付いたら寝落ちしている事も多々あると思います。

 

アブラハム・リンカーン(米国第16代大統領)の言葉です。

「聖書こそ神が人類に与えた最良の贈り物である。聖書なしに善悪の区別を知ることはできない。人間の幸福にとって必要なことは全て聖書に記されている」

求道中の時に知りました。今は、リンカーンが残されたこの言葉、本当にそうだと思います。

人間の幸福にとって、人間にとって必要な事は全て聖書にあると思っています。

 

我が家は、男の子が2人です。長男は、初めての子育てでしたが「私は多分、他のお母さんより楽させてもらってるかも・・」という位、余り手がかかりませんでした。

問題は次男です💦 長男の分まで? 手がかかる子どもでした。生まれて2ヶ月後から保育園に行きました。

保育園に行くと、初めてのチャンレンジが多いです。新しいお遊戯を毎月習ったり、絵具で絵を書いたり、プールに入ったり、月齢が上がると、縄跳びをしたり、竹馬、跳び箱、楽器を習ったり、手で編むセーターを卒園記念に作ったりもしました。

どれもお友達と遊びながら、習得していくべき事柄です。

しかしうちの次男は、新しい事にチャレンジするのが難しく「僕はしない!」という選択をします💦

みんなが運動場で縄跳びの練習をしている時も、運動場の端に座って、お友達がするのをジッと見ています。何カ月も・・・一度も縄跳びを手にしません。

先生が「一緒にしようよ~」と誘うと、大暴れします💦 お友達が数名、二重とびが出来るようになった頃、やっと自分も縄跳びを手にします。そして凄い勢いでお友達に追いつきます。

一つ一つがそうでした。小学校に入ると、新しいことだらけです。しかしきっぱりと、「先生、僕はしません!」と言うタイプで・・・

気に入らない事があると、とりあえず教室で暴れてから、学校を飛び出し、家に帰ろうとします💦 何度、学校を飛び出したことがあったか。学校から何度も連絡がありました。「すみません。授業がない教員全てで、学校から駅までの道を探しています。後5分の間に見つからない場合、申し訳ないですが警察に連絡させてもらいます」という連絡を何度もらったか・・・(結局6年生まで続きました)

自分の感情を口で伝えるのが難しく、言葉に出来ないタイプです。感情のコントロールが難しく、怒りが内に籠るタイプではなく、外に爆発させるタイプでした。

小学校2年生の時は、自分より遥かに体が大きい男の子と喧嘩をして・・・その友達は学校の教室から救急車で病院へ・・・💦

その様な子育ての中、次男が保育園で本当に大暴れが続いている時期にこんな話を聞きました。

知り合いのお母さんの話です。100歳で亡くなりました。亡くなる前に子どもたちが(70歳超)集まり、「あ母さん、今までありがとう・・!」と伝え、「お母さん、いつが一番幸せだった?」と聞いたそうです。

「そーやね・・・そりゃ、あなた達が小さい時が一番幸せだった。すっごく可愛かった。」と言われて亡くなられたそうです。

その話を聞いて、「今が人生で一番幸せな時なのか? 本当に?」と思っていました。

今日は何をしたかな・・・と毎日、保育園のお迎えに行くのが不安で、同じクラスのお母さんに会うごとに、「うちの子がすみません💦」と謝り続けてる私・・・

でも、、人生100年生きてきた人が言うんだし・・・本当かも。とりあえず、今が人生で一番幸せな時間を過ごしているという事を記憶しながら、子育てしよう・・・と思って乗り切りました。

中学生になっても、まだまだ安心できる日は来ませんでした。自分から友達に、何か嫌な事をすることはないのですが、少しでも嫌な事を言われたり、されたりすると、一気に怒りが頂点に・・・

もう、私の手には負えないのです。だってもう中学ですから。

私は、長男にも次男にも、沢山の話をしてきました。子どものタイミングを見て、分かりやすい例話を何日も考え探し、聖書を用いて・・・

どうしたら、子どもたちが、主に喜ばれる人生を歩めるだろうか。どうしたらバランスがとれた人格を持てるだろうか・・・ずっと考えては、祈り、自分なりに努力しました。

しかし、次男が中学生になって、自分の手に負えなくなってみて、やっと心底、分かったことがあります。

子育てって「牧会」です! 

主から任された子どもを、「キリスト者(信仰を持つ者)」として育てるのです。

主に喜ばれる人生、バランスの取れた人格・・・を目指すのではなく、「キリスト者になるように育てる」が一番大切で、子育ての中心とするべきだと思います。

主に喜ばれる人生 ➡ 自分の子どもが祝福され、豊かに生きてけるようにという思いが、私の心の根底にある。

バランスが取れた人格 ➡ 自分の子どもが、社会で認められ周りの人から必要な人となるように、という思いが私の心の根底にある。

私が主に願っていた思いは、実は私の子どもが、「不自由なく豊かな人生を歩めるように」という私の欲が根底にあるのです💦

そうではなく、「キリスト者」となる事、子どもがどのような人生であっても、「主を選択できる者」となる事が大切なのです。

子どもは成長します。小さい時は、親が子どもの生活に関与でき、代わりに謝ったり解決へと導けますが、成長するほどに、関与できなくなり、把握出来なくなるのです。

ひとりの人間として成長する為に、親と子は、少しづつ距離が出来てくるのです。

子どもが自分で物事に対処し、解決できるように、いつも主の助けを求めれる人に成長するべきなのです。

一番大切な事は、子どもが自分で物事を対処し、解決できるように、いつも自分の意志で主の助けを求められる人に成長するべきなのです。

それ以外の祝福や人格形成も大切ですが、何よりも大切なのは、自ら主を選べるかどうか・・・

私は、子どもたちへの祈りの焦点が間違えていました。

「不自由なく豊かな人生を歩める人生」を求める祈りより「主を選択できる者」として成長できるように求め祈るべきだったのです。

次男が小さい時、暴れてしまう事に対して、毎回、家で時間をかけて次男の言い分を聞きました。

簡単に言うと「どうしてこんな事になったのか」です。

次男は、友達にこんな事をされて嫌だった、腹が立った。で「怒ったと思おうけど、覚えていない」と答えていました。いつも記憶にないのです。それぐらい、パーンっと怒りが頂点を超えてしまうのです。

私はいつも、このまま大きくなったら怖すぎる・・・「切れやすい子ども」の枠を超えているからです。

「どうしたら良かったんだろう?」と子どもに答えを出さすようにしました。

でもね・・・これは違いますね。

子どもも、記憶にない位、飛んで行ってしまっているのです。私が、この子‥本当にどうしたらいいんだろう?? と思う以上に、次男は自分をどうしたら良いのか分からない状態だったのです。

「お母さんも、あなたも、どうする事も出来ない。気持ちのコントロールを神さまに助けてもらおう!」と言って、主の力に頼る事を学ばせるべきでした・・・

何でもかんでも神任せ、ではないですが。

人間の努力には限界があって、自分が、「こうしたい!」「こうなりたい!」と思っていても出来ない事って沢山あり、主に依り頼むのが一番だという経験を積むべきでした。

子どもが成人していても、子どもへの祈りは同じだと思います。

子育て中のパパさん、ママさん。

沢山祈ってあげて下さい。主を選べる者となれるように。

目の前にいる子どもは、特別に主が私に預けられた子どもです。

目の前の子どもが、キリスト者として成長できるようにというミッションが与えれています。

今日も、沢山お祈りします。

皆さんも、祈る一日となりますように・・

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