どうして教会の人間関係でつまずくのか【ルカ18:9-14】

2022年

9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。

12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

14 あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

ルカ18:9-14

 

この個所は、パリサイ人と取税人が祈る為に神殿に来た話です。

パリサイ人は、「自分はゆする者、不正な者、姦淫する者ではい。週に二度断食し、受けた物の十分の一を捧げている。」と祈りました。 パリサイ人は神の教えを文字通り守り、宗教的に歩んでいました。

しかし、11節を見ると「神よ。私はほかの人々のように・・・」と祈っているのです。 人との比較の中で自分を見て自分の正しさを誇り、他の人を見下していたのです。

「神を愛し、隣人を自分自身のように愛する(マタイ22:39)」という主の教えとは反していました。 神の前に生きているのではなく、人と比較し、人をさばき、自分を誇っていたのです。

パリサイとは「分離された者」という意味があります。自分は違うのだとしていました。パリサイ人は、隣人を愛せていないとは気づかず、神の教えを守っていると自分を誇っていたのです。人と比べ自分の正しさを誇るだけで、自分の罪を嘆くことはなかったのです。

一方、取税人は、遠く離れ、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたき続け、「神さま。こんな罪人のわたしをあわれんでください。(13節)」と祈りました。

人との比較は全くありません。人を顧みる余裕はありません。神しか見ていませんでした。神に見られている自分しか見ていないのです。そして、自分の罪を嘆き、「あわれんでください」と祈ったのです。

 

私たちも、知らず知らずのうちにパリサイ人の様な信仰を持ってしまう事があります。

長く教会というコミュニティに属すると、自然と「教会とはこうあるべき」「クリスチャンはこうあるべき」という空気に染まってしまいます。

主は、私たちが教会に集まり共に礼拝を捧げる事を望まれています。

しかし、教会というコミュニティに難しさを覚える方も多いです。

教会は「愛の教会」であるべきという考えが、つまずくのではないでしょうか?

教会も人の集まりです。教会内で人間関係に問題が生じるのは当たり前です。愛の教会は、愛が溢れており、皆が完璧に優しく包容力があるべきコミュニティだと思っているから、人同士がぶつかるのではないでしょうか?

教会は、皆がキリストに出会い、古き自分から新しく変えられていく場所なのです。自分の罪と向き合う時、罪を示された時、家庭や自分に問題が生じた時、心はどうですか? 平安ですか? 心は激しく揺れ動くと思います。痛みを覚える事が多いと思います。

教会に集まる全ての方が、日々神の子として成長していく場所なのです。成長過程では、心が揺さぶられるものなのです。

誰一人として完璧な姿に変えられた者はいません。私たちは主に信仰告白をしたら、一度に180度、価値観や思考など全てが変わるわけではないのです。信仰告白をし、罪は許され永遠の命を得る事は出来ますが、神の子としては赤ちゃんから始まるのです。

だから、クリスチャンでありながらも、成長過程である場合、心が揺さぶられ、葛藤もするでしょうし、心無い一言を言ってしまったり、態度をとってしまう事も大いにあるのです。

問題は、「愛の教会なのに・・」という「教会はこうあるべき」という考えを持っているという事です。

心無い一言を言う人は、祈ってあげる対象なのです。今神の子として、もっと変えられる段階に差し掛かっていると思ってください。隣人として愛して見守ってあげるべき対象なのです。

「クリスチャンなのにあんな事いうなんて・・・」という思いは、その人を裁いているのです。

「自分の方がクリスチャンらしい」という考えのもと、その様な思いがでてくるのです。

これはパリサイ人っぽい思考です。

 

もし私たちが、ここに出てくる取税人の様な信仰を持っていたとしたら、どうでしょう?

皆が人とは比べず、「こうあるべき」という思考を持たず、主だけを見るのではないでしょうか?

主が見られている自分の姿が恥ずかしく感じ、「クリスチャンなのに」という思考は人には向かず、自分に向くのではないでしょうか?

 

神の子として変えられていっている人たちが集まっているのが教会です。

ですから人間関係など、問題が生じるのは当たり前なのです。 しかし、教会に集まる一人一人が「クリスチャンなのに」という思考を自分に向けるなら、その教会は「愛の教会」を目指せる教会へと成長していくのです。

 

しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(Ⅰヨハネ1:7)

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