「こんなはずじゃなかったのに…」って思う時【イザヤ55:8-9】

2023年

わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ―

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

イザヤ55:8-9

今日、電車に乗っている時に、隣に女の赤ちゃんを連れた若いお母さんが座りました。

この赤ちゃん、6カ月程で凄く可愛いく、お洋服も凄く可愛いのを着ていました。

お母さん、「こんなの着せたら可愛いだろうな~」と自分の子どもの洋服を楽しんで選んだんだろうな~と思いながら、私は赤ちゃんを見ていました。

少しすると、赤ちゃんが泣きだし…

お母さんは、申し訳なさそうに「もう…泣き止んで…」と席を立ち抱っこを始めました。

それでも泣き止むことはなく、ギャンギャン泣き出しました。

しかし、その姿も可愛く、電車の中では「大丈夫よ~」と声をかける人もいました。

お母さんは「もう…泣いてもどうもできないからね…」と子どもに話しかけていました。

決して強い言い方ではなかったのですが、言葉尻に子育ての疲れを感じました。

あー多分、かなり子育てにストレス溜まってるんだろうな…

自分の想像とは違う子育て…

もっと楽しいと思ってただろうに、「こんなはずじゃなかったのに…」と感じてるかも…と私は1人勝手な想像をしていました。

そんな事を考えながら、マリヤもイエスさまを育てながら子育てに疲れたり「こんなはずじゃなかったのに…」と感じたんだろうか…

イエスさまの幼児の時の記録はないので、どのような幼児だったのかは分かりません。

しかし、ふと思ったのは、

マリヤに天使のガブリエルが現われ、男の子が生まれると告知しました。

「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」

とガブリエルは伝えました。

マリヤはこれを聞いて自分が「救い主」を生む…という事を理解できたのかどうかは分かりませんが、

少なくとも「聖なる者」「神の子」を産むというお告げだったのです。

日に日にお腹が大きくなるマリヤは、このお腹の中には「聖なる者」「神の子」なんだと信じて過ごしたと思います。

イエスさまは家畜小屋で生まれています。

もし、私に天使が現われ「聖なる者・神の子」を約束されたら…

豊かで立派な環境の中、多くの人に祝福され生まれてくると想像すると思います。

そのような環境で生み育てる事が出来るという事を、約束されていると思ってしまうと思います。

何となく私は「王子の様な子」を授かっているんだから、それなりの状況下が約束されたように勝手に思うと思います。

しかし実際は、マリヤが身重になった時、

ローマの皇帝アウグストゥスから住民登録をせよという勅令が出たため、

自分の先祖の出身地であるユダヤのベツレヘムに向かう事になったのです。

ナザレからベツレヘムまでは140kmほどの距離があり、

しかもナザレの町は標高400mくらいの所にある町。

ベツレヘムは更に高くて標高775mの丘の上にある町だそうです。

身重での長旅。寒さもあったでしょう。

宿屋は全て満席。

誰一人として「どうぞ、こちらにお泊り下さい」と部屋を譲ってくれる人はいなかったのです。

この現実に、マリヤの心境はどうだったんだろう…と思いました。

聖なる方を身重っているのに、マリヤの想像とはかけ離れた、思いもよらない状況に悲しさを覚えなかったのだろうか…と思いました。

普通の出産であっても、宿がなく、誰一人として「どうぞ、こちらにお泊り下さい」と言ってもらえない事に、悲しさ、人の非情を感じてしまうと思います。

それが約束された「聖なる方」であったとしたら、一層「こんなはずじゃなかった」と思うのではないでしょうか。

マリヤや私たちの考えや思いとは違い、主には意味のある計画があるのです。

イエスさまが家畜小屋で生まれ、飼い葉おけで眠る事に大きな意味があるのです。

神の子であるイエスさまは王宮ではなく、家畜小屋で生まれ、普通の家で育ったのです。

私たちとは水準が違う高く離れた所で「崇められる姿」ではなく、「仕える姿」で来られたのです。

「裁く方」ではなく「赦す方」

イエスさまの家畜小屋での誕生には、大きな恵みが示唆されているのです。

しかし、私たちには分かりません。

実際に目に写る現実と、自分の勝手な思い、想像の差に、落胆したり悲しくなったりするのです。

そして「こんなはずじゃなかったのに」と嘆くのです。

しかし、イエスさまの誕生を表す「星」は、しっかりと夜空に輝いていました。

そして、その星を頼りに、イエスさまの誕生に対して必要な人々が家畜小屋を目指して動いているのです。

マリヤとヨセフには、「星」も「必要な人々がすでに動いている」ことも知らないのです。

星は、マリヤとヨセフのすぐ近くではなく、遠く離れた所で輝いていたのです。

私たちには、主の御業が見えない、気付かない、見落としがち…なのかもしれません。

私たちには分からなくても、主は必要を応じて全てを準備され、今日も働かれているのです。

主の計画に従って。

私たちは、今の現状、自分の目には良くない状況に、心を痛める必要はないのかもしれません。

何故なら、全ては主の御手の中。

私たちは、この御手から落ちる事はありません。

私には気付かなくても、主の星は輝いているのです。

今日も、主を信じ、主と共に時間を過ごす一日となりますように…

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