主の助けは早かったり遅かったり・・なぜ?【マタイ14:22-32】

2023年

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群集を帰してしまわれた。

群集を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。

しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。

すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。

弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。

しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ、恐れることはない」と言われた。

すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」

イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。

ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ、助けてください」と言った。

そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」

そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。

マタイ14:22-32

4つの福音書には37の奇跡が記されているそうです。

その内の1つである「イエスさまが湖の上を歩かれた話」。

ここ2-3日、ずっと頭に浮かんでいました。

この水上歩行の奇跡の前に、イエスさまと弟子たちはパンと魚を5000人の人に食べさせるという奇跡を行っておられました。

その後、イエスさまは弟子を強いて舟に乗せ、ご自分は群衆を解散させ、山に登りお祈りの時間を持たれたのです。

「弟子たちの心の目がひらかれるように」と、祈られたのではないかと言われています。

イエスさまは、弟子たちが湖の上で彷徨う事をご存知だったはずです。

湖の上で辺りは真っ暗。強風のため舟はひどく揺れ、弟子たちは疲労困憊。

怖い思いをすることをご存知で「強いて」弟子たちだけを舟に乗せたのです。

私は前々から、この部分を読んで不思議に感じる事がありました。

➀ イエスさまは、何時間も一人で祈りの時間を持たれ、そして午前3時に湖の上を歩かれたのです。

他の福音書を比べて読むと、弟子たちは「夕方」には湖畔から湖の真ん中にいました。

夕方とは日が暮れる時間帯・・その時から午前3時まで祈りの時間を持たれたという事です。

弟子たちが孤立無援になって不安の中にいてるとご存じのはずなのに、どうして朝方の3時まで祈られ動かれなかったのだろう。

どうしてもっと早くに助けてあげなかったのだろう・・助けに行くのが遅くないか・・?

② この水上歩行の記録はルカの福音書以外の3つに記録されています。

マルコの部分を読むとイエスさまは弟子たちに近づかれたが、そのままそばを通り過ぎようとされていたのです。

イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。(マルコ6:48)

弟子たちが怖い思いをしているのをご存知であったハズなのに、どうして通り過ぎようとしていたんだろう・・

何か、私が知っているイエスさま、私が思うイエスさまの姿とは違うように感じます。

③ イエスさまは弟子を助けに行くのは遅いのに、、、弟子たちがイエスさまを幽霊だと勘違いした時、すぐに「わたしだ」と言われました。ペテロが湖に沈みかけた時も、すぐに手を伸ばし捕まえてくれたのです。

主は急いで湖には来られなかったのに、この時は「すぐに」行動してくれされたのです。

どうしてだろう・・とずっと疑問に思っていました。

そして、多分・・私なりに分かった事があります。

弟子たちは何時間も舟に揺られ怖い思いをしながらも・・

誰も主を呼ばなかったのではないかと思います。

万一、「主よ助けて下さい!」と切に祈っている者が一人でも居たとしたら、人間らしい形をしたものが近寄って来る姿を目にして、幽霊だと叫ばないと思います。

思ってもないものが突如として現われたから「幽霊」だと認識したのではないか・・

また、ペテロはイエスさまに「主よ、助けて下さい!」と、イエスさまの名を叫び呼んだから、イエスさまは直ぐに行動してくれたのではないか・・

私は、「イエスさま、夜中の3時まで祈らないで、もっと早く弟子たちの所にどうして行かれなかったんだろう・・」と思っていましたが、

イエスさまは弟子たちが、助けを呼ぶのを待っておられたのではないか・・

怖い思いをしている弟子たちが、早く主を思い出し名を呼ぶようにと、とりなしておられたのではないか・・・

いつまで待っても弟子たちが自分を呼ばない・・

でも弟子たちは疲労困憊している・・だから、近くに行かれたのです。「早く自分を思い出し、自分に助けを求めて欲しい」と願いながら。

こんなに困難に合っても、数時間前にパンと魚の奇跡を目にしても、主を呼び求めない弟子たちを横目に、そのままそばを通り過ぎようとされたのかも・・

しかし、弟子たちがイエスさまの姿を見て、怖さを感じ叫ぶ姿を見て、主は思い直され「直ぐに」わたしだ!と言われたのかも。

だとしたら・・・この時の水上でのイエスさまの「しっかりしなさい。わたしだ、恐れることはない」と言うセリフ・・

主は悲しい思いで言われたのかもしれません。

いつになったら私を信頼し、私に寄り頼むのだろう・・と。

主は・・・私たちが主の名を呼び求めるのを待っておられるのです。

主の名を呼び求める者には「直ぐ」行動し助けてくれるお方・・

私たちは、自分に関する物事が万事うまくいっている時・・主を忘れます。

しかし、大きな困難にあった時、この時の弟子たちのように希望を持てず疲労困憊し、誰の助けをも求める事が出来ないと孤立無援の状態になっても・・主を信じ呼び求めれないのです。

どうしてでしょうか・・

私たちは苦しく辛い時、一刻も早く助かる事だけ、楽になる事だけ、解放され解決される事だけを望んでしまうからです。

だから、問題が解決し過ぎ去れば、全てが完了し、何事も無かったかのように日常へと戻って行ってしまうのです。

一番大切な、いつも主が共に居て下さり、私の事をご存知でいて下さっている。という絶対的な信頼を置き去りにしてしまうのです。

私たちはいつも「主の助けは遅い」「もっと早く助けて欲しい」「もっと早く答えて欲しい」と願います。

主は忍耐を持って、私たちが主の名を呼ぶのを、待っておられるように感じました。

弟子たち・・誰か一人でも、主を思い出し主の名を呼べば、午前3時まで怖い思いをしなかったかもしれません・・・

主の名を呼ぶとは・・単に呼ぶのではなく、湖に溺れそうになったペテロが主を呼んだように・・

自力ではどうする事も出来ず、他の弟子たちに寄り頼む事も出来ず、完璧に主だけが出来るという信頼が自分の中で満ち、、、そして主の名を呼ぶのです。

私たちが経験する困難や寂しさ、苦しさには、本当は大きなメッセージがあるのです。

でも、過ぎ去る事だけを求めてしまう私たち・・・

いつになったら私は、本当の意味で主を信頼する事が出来るのでしょうか・・💦

今日も、主と共に歩み、主からの語りかけを沢山感じる一日をお過ごしください!

(マルコ6:45-52 ヨハネ6:15-21)

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28-29)

「主よ。あの土地がLOVE BIBLE(私たち)に与えられますように!」

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