私に御顔を向け、私をあわれんでください。私はただひとりで、悩んでいます。
詩篇25:16
日々、私たちはどの様な祈りを捧げているでしょうか。
食事の祈りの「今日も食事を与えて下さって感謝します」
他には朝夕にも祈りますよね?
〇〇を救ってください。〇〇の問題を解決して下さい。私の心の傷を癒して下さい・・
祈ろうと思えば・・祈る事は沢山あります。
でもなかなか、心を落ち着かせ主に集中して時間を持つことが難しいのではないかと思います。
どうして集中できないのでしょうか。
疲れているから。日常の生活音が気になるから。1人になる空間がないから・・
色々な理由があると思います・・
旧約聖書に出てくる、イスラエルの第2番目の王ダビデ。
古代イスラエルで最も偉大な王だと言われています。
容姿端麗であり少年時代、3メートルもあるゴリアテに勝利をしています。
また第1番目のサウル王に仕えている時から、ダビデは戦に負けた事はありませんでした。
無敵な存在だったのです。
民の人気がサウル王よりダビデに集中した為、サウルに妬まれ命を狙われました。
しかしダビデの人生を聖書の中で見ると、一度犯した大きな罪・・以外、本当に素晴らしい信仰の持ち主だと思います。
謙遜であり自分の非を認め、悔い改める事が出来る人物です。
詩篇の多くもダビデが書かれたと言われています。
ダビデは「ただ1つのこと」として、神の御顔を慕い求めました。そして「顔と顔をあわせて神と会う」という世界を体験しました。
このようなダビデ、祈りの中で度々使っていた言葉があります。
「主よ。私をあわれんでください」
私をあわれんでください・・と祈った事はありますか?
「憐れんでください」という言葉。
あまり日常でも使わないですよね。
憐れみが必要な生活とは、どの様な生活であり、どの様な人生なのでしょうか。
本当に自分が社会の底辺に追いやられ、家もなく友も居ない孤独な状態・・・の様に感じます。
何も持っていない。
自分が無力である。
助けてくれる人が誰もいない。
自分の力で生きていく事が不可能である。
自分でどうする事とも出来ない生活であり、豊かな人生とは正反対の寂しく悲しい人生です。
自分が生きて行く為には、第三者による憐れみが必要な状態なのです。
この様に心底、自分はゼロであり、何一つ自分では出来ることがない・・と思わないと出てこない言葉ではないかと思いました。
ダビデは謙遜な人だと思います。
ダビデを尊敬してダビデを慕う人はいました。
しかし、自分を助け導くことが出来るのは、主だけだと知っていたのです。
戦いに勝利を重ねる事が出来ても、それは自分の力ではないと忘れなかったのです。
ダビデは「英雄」だと称えられても、自分がゼロであると忘れなかったのです。
私は・・自分がゼロだと思えていないのが祈れない一番の理由だと思います。
自分の弱さ、自分の無能さ、自分の非力さ・・何一つ自分では出来ない存在であるという事を忘れて生きているんだと思います。
簡単に言うと「高慢」なのです。
祈らなくても何とかなると思っているのです。
私がもっと「謙遜」であれば、祈らずには生きていけない・・切に主の助けを求めなければ生きていけない。
これを忘れて生きているんだと思います。
「主よ。私をあわれんでください!!」と祈って行こうと思います。
今日、祈る重要性に気付く日となり、祈り始める1日となりますように!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!