主が望まれている場所で生きているだろうか【詩篇1:3】

2023年

その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

詩篇1:3

自宅の近くに、盆栽を沢山置いているお宅があります。

おじいさんが住んでるんだろうな~と思いながら時々、このお宅の前を通っていました。

先日、初めてこのお宅のおじいさんが盆栽の手入れをしている時に前を通りました。

おじいさんが、盆栽の松の木の根っこを切っていました。

「え? 盆栽って枝葉を切るんじゃないの・・?」と盆栽に対して無知な私はビックリし思わず、

「えーー 盆栽って根も切るんですか?」と声を掛けました。

おじいさんは、枝葉も切るけど根も切らないと、根の大きさに合わせて枝葉を伸ばすものだと教えてくれました。

枝が伸びればそのぶん根が伸びて、根が伸びればそのぶん枝が伸びる。

だから両方切ってバランスを整える手入れが必要だと言われていました。

考えたら分かる事ですが、考えた事がなかったので、なるほど・・と納得しました。

大きくなり過ぎないように、鉢の中で生きて行く為に根を切り、枝葉も切る。

今回初めて、盆栽をまじまじと見ました。

凛としている様にも感じ、本来ならば大きな松の木がこんな片手に収まる鉢に収まって生きる事が出来る事に驚きも感じました。

鉢ではなく地に根を下ろしていれば、思う存分、根を張る事が出来、枝葉を広げる事が出来る・・

私は今、どこに根を下ろしているんだろう・・・

あの盆栽たちは、鉢の中でしか生きて行く事が出来ないけれど、

私は自分の生きる場所を選ぶことが許されている。

自分がどれほど信仰の根を張るか、自分の意志で決める事ができる。

自ら、鉢を選んでその中で大きくなることを拒み生きると言う方法もある。

松の木が土から養分を得るように、私は聖書から栄養を得ているだろうか。

松の木が太陽から光を浴び光合成するように、私は主を見上げ、祈りを通して霊的な呼吸が出来ているだろうか。

主が望まれる信仰は、

鑑賞用に良い、片手に収まる鉢の中の盆栽のような信仰ではなく・・

地に大きく根を張り、枝葉を伸ばし、人や鳥たちを休ませることが出来る木。

時が来れば花や実を結ぶ木々のような信仰。

形式的に日曜日は教会に行き、兄弟姉妹とも何となく会話を交えるような・・・観賞用としては見栄えの良い、必要最低限だけの信仰に満足していないだろうか・・

根を張る事に喜びを持ち続けているだろうか。

「もうこれ位で十分!」と勝手に自分の成長に満足していないだろうか。

信仰は年を重ねる度に成長できるのに・・

今日の御言葉のように、

「水路のそば」で生きているだろうか。

自分で自分の環境を「水路のそば」のような環境を持てているだろうか。

日々忙しくても、出勤時間に聖書をスマホで読めたり、聖書を聞けたりするし、賛美も聞ける。

家に帰れば、テレビより先に賛美をかける事も出来る。

歩きながら祈る事も出来る!

自ら自分が生きて行く場所を「水路のそば」のように整える事が出来る・・

今日も、主から沢山の栄養を貰い、時が来ると実を結べる信仰と成長出来ますように!

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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