苦難の中の祈り【Ⅱコリント12:9-10】

2024年

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

Ⅱコリント12:9-10

何か問題が起きて、辛い日々が続くと、決まって連絡をくれる人がいます。

彼女から連絡が来るようになって、もう何年だろう…

記憶を辿ると、もう20年位前から?

そしていつも私は、すごく彼女に対して残念に思うのです。

20年前から変わっていないと感じているのです。

彼女に生じる問題は多少変化があっても、

その困難の中での彼女の反応や考える事に変化がないのです。

神さまがいるのなら、どうして私にこんな事が起こるんだろう…

私はいつまで苦しめば良いのだろう…

神さまは応えてくれない…

信じても信じなくても、…難はやってくる…

生きるのがしんどい…

…確かに私を含め、誰もが困難な中を過ごす事は嫌な事です。

早く解決し、その問題から抜け出したいと願うものです。

少しでも早く解決し、問題から解放され、前に進みたい…

しかし… 私たちは主を信じる者。

苦難には、何かしら意味があるんだと知っている者です。

苦難は、サタンからくるものか、もしくは主が赦されたものか分かりません。

しかし、自分に来る苦難が何処から来たものであっても、

苦難が来れば私たちは苦しく感じるのは同じです。

そして、もしサタンから来たものだとしても、主は全てを益とされる方なのです。

だとすれば、私たちに出来る事は、

主がどの様に益として下さったのかを知ることです。

しかし、私たちは苦難が来れば苦しくなり、辛くなり、孤独にもなり、

「問題解決」に気持ちが集中してしまい、

お祈りも「問題解決」を願ってしまいます。

しかし、本当に祈らないといけないのは…

「この苦難を通して主が私に何を語ろうとしているか」なのです。

苦難は、主がいたずらに私たちに苦しみを与えているのではなく、

何かを語ろうと、教えようとしているのです。

その大切な部分に目を向けず、痛みだけを取り去って欲しいと祈り続け

「主は私の祈りを聞いて下さらない」と落胆するのは、とても残念です。

問題解決したいですが、

一旦はそれは横に置いて置き、

まず、「主が今私に何かを語ろうとされている事を感謝する」と言うのが第一の祈りです。

そして「何を語ろうとされているのか」「何を教えようとされているのか」を求めるのです。

それと、多分…

試練を通して、共通して私たちに教えられようとしている事の1つ。

「自分の弱さを認める」という事だと思います。

私たちは困難に遭い「主よ助けて下さい。私にはどうする事もできません」と祈りながら、

どこかでまだ「何とかがんばろう…」という思いを持ってしまっている事が多いのです。

主は私たちが、完全に自分の弱さを認めることを望まれているのです。

そして、完全に(その問題から)両手を挙げた状態で、主に問題を手渡すのを望まれているのです。

自分の完全な弱さを認めないと、主の強さを知ることができないからです。

主が待たれているのです。

なかなか主が問題を解決して下さらないのではなく、

なかなか私たちが完全に自分の弱さを認めないのです。何とか頑張ろうとするのです。

主が私たちが完全に問題を明け渡すのを待たれているのです。

もう全てを明け渡し、主に依り頼むしかダメなんだ…と完全に悟るのを待たれているのです。

主の強さ、主の完全さを知るためにです。

問題をギュッと握っては、主は働くことが出来ないのです。

自らがギュッと握った手を、主の前に開くまで、主は待たれているのです。

主の前で手を開けば、

主が考えられる一番良い方法で道を開いて下さるのです。

ギュッと握った手を持つ私たちは、主が道を示されてもそれが「一番良い道」だとは思えないのです。

ギュッと握ったところで、私たちは何も出来ないのです。

早く手を開く事が解決への道であり、主が益として下さる事を体験出来るのです。

苦難は、主の偉大さを知る時なのです。

頭では分かっているんですけど…ね。

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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