祈っても一向に状況が変わらない!【Ⅱコリント12:9】

2023年

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

Ⅱコリント12:9

祈っても祈っても、一向に状況が変わらず、返って良くない方向に進む事ってないですか?

こんなにも心から祈っているのに・・どうして解決に向かって助けてもらえないのだろう。

期待している方向にいつになったら方向転換するんだろうか・・

いつになったら、私はこの暗闇から解放されるのだろう・・

誰もが経験した事がある感情だと思います。

主に祈る時、気を付けたい事があります。

私たちは、何かを願う祈りが多いと思います。これは悪いことではないです。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリピ4:6)」とあるからです。

しかし、目の前の問題に対して解決を祈る時、、、

もう既に、自分の頭でどの様に解決するのが望ましいか。どういった状態が「解決した」という状態なのか、決めてしまっているのです。

そして自分が決めている「解決」というゴールに物事が動かないと、「私の祈りは聞かれない」「祈っても答えられない」とガッカリするのです。

祈りながら、既に解決までの道筋とゴールを決めてしまっているからです。

自分の思い描いた道筋通り事が運ばないと、私たちは勝手に、主が不在かのような思いに、主は私には振り向いてくれないと、孤独に浸ってしまうのです。

そんな事を考えながら・・今日の御言葉の箇所を思い出しました。

パウロも同じような心情だったと思います。パウロに「とげ」があったのです。ガラテヤ書4:15を見れば、一目見て分かる様な、目の病だったと言われています。

パウロは、キリスト教の歴史に残る偉大な働きをした人物です。

主がパウロを病から守るのは「当たり前」ではないでしょうか。

パウロは牢獄に入れられるような厳しい環境の中でも、人々に主を伝え、人生を伝道に捧げている人物なのです。

パウロは沢山の教会を建てました。異邦人の救いの道を開いた偉大な人物です。

パウロにとって「とげ」は伝道の妨げになるし、主に仕える者として「当たり前」に癒されるべきものだと考えやすいと思います。

パウロは3度も主に「このとげを取り除いて下さい」と祈っています。

しかし、主は「わたしの恵みは、あなたに十分である」と言われました。

主はパウロに「これ位は受け入れなさい。素晴らしい他の物を沢山与えてるのだから・・・これ位は我慢して受け入れなさい。」とは言われなかったのです。

主は、「それぐらい妥協して生きなさい」とは言われないのです。

「あなたが望む方法(”とげ”がなくなる)ではなく、私(主)が望む方法で生きなさい。あなたが望む人生ではなく、私が望む人生を生きて見なさい。あなたの想像を超える人生を与えよう。」

主は、パウロには絶対に高慢になって欲しくなかったのだと思います。

主は、パウロには謙遜な良き僕でいて欲しかったのだと思います。

主は私たちが弱さを感じる時、自分には力もなく、自分で何もできない・・と心底感じる時に主がはたらかれるのです。

主がパウロに与えられた ”とげ” は、人間的には不必要なものであり、当たり前に取り去って頂くものです。

しかし、主にとっては、パウロの人生にその ”とげ” は必要なのです。

パウロでなく、主の御力で働きを行うためにです。

パウロが望む「主を伝える」という人生・・

これをパウロの力でなく、主が大きく働くために ”とげ” が必要だったと言事です。

主は、祝福として病をパウロに与えられたのです。この祝福のお陰でパウロは死ぬまで謙遜な良きしもべとして存在する事ができたのです。

主はパウロを愛しているが故、病を与えられたのです。

私たちの価値観は、病は不要なもの。避けたいもの。という概念があります。(私もそうです)

私たちの価値観で不要だと感じるものを、主が祝福として与えられることがあるのです。

主にとっては祝福でも、私がずっと「不要」だと信じていたら、辛く悲しい信仰生活になります。

主の価値観で物事を見れるように・・

自分で祈りのゴールを決めないように・・

祈っていきたいです。

私が望む人生ではなく、主が望む人生を歩む為に。

今日も、主の中で豊かな一日をお過ごしください!

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