まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子のなのです。
しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。
へブル5:13-14
人は幸せに生きたいと願っています。
私たちはキリストに出会い、自分の人生が新しくされたのを感じます。
今まで感じた事がない、喜びに包まれる経験をします。
主を信じるって素晴らしい。キリストに出会えてよかった!という時間を過ごします。
しかし・・・数年たち、信仰生活を送る中で、その様に満たされた思いが薄れ・・
「私は本当に主に愛されているのか?」と考えたりします。
毎週の説教や、ネットを通して、信仰書を通して「主はあなたを愛しています」と書かれています。
聖書にも書かれています。
しかし、それがピンとこない・・
本当かな・・と感じられる方も多いのです。
そうかと思えば、凄く主に満たされ主に愛されている事を実感出来ているクリスチャンの方もいます。
この違いは何でしょうか?
主を知ったあの時のように心から生ける水が湧き出るような感覚・・
あの感覚は何処に行ったのでしょうか。
喜びが湧き出る感覚だけでなく、自分が今、主に愛されているかどうかも確信が持てない状態を多くの人が経験します。
「あの時は満たされていた・・今は良く分からない・・」と感じた事はありますか?
これは、喜ぶべき事なのです!!
キリストを知った時、主を自分に迎え入れた時、喜びに満たされました。
どうしてでしょうか。
それまでの人生が、主を知らずに生きてきて、沢山、傷つき、疲れ、敗北感・・ボロボロだったのです。
そのような姿をした私たちを、主が受け止めて下さり、主に抱かれ時間を過ごしたのです。
「私の娘よ(息子よ)! よく私の元に帰って来た・・!」と。
ボロボロの私たちを抱きしめて下さり、「癒しと希望がここにあるんだ」と教えて下さった時間なのです。
その後に感じる、主の不在感・・主に本当に愛されているんだろうかと考えてしまう日々・・
これは、レベルが上がったのです。
今まではボロボロで主に抱かれ時間を過ごしたけれど、
今からはそうではない。
主が誰であるか知った今は、あなたからも日々主を求めなさい。
キリスト者として生きていく事を、日々選びなさい。
赤ちゃんの成長と同じで、離乳食を食べ続ける事をせず、普通食、硬い物も食べれるようになるべきなのです。
「私はもう、あなたに十分な癒し、慰め、力を与えた。今からは自分が受ける事に集中するのを辞めなさい。
これからは硬いものを食べ、キリスト者として成長する時だよ」という合図です。
私たちは誰かと出会い、沢山の会話を交わし、この人がどういった人なのか。時には意見が合わず互いに時間をかけ話す事で一層相手を理解出来たりします。
色々な出来事を通して互いの信頼関係が成り立つのです。
会った事も、話した事もない人が第三者を通して「あなたの事を愛しています」と言われてもピンときません。
これと同じだと思います。
主とどれ程時間を過ごしたか。
主とどれ程交わりをいたか。
私たちは、主が私に与えられた十字架を受け取るまで・・・私たちは主の愛を心から理解する事が出来ません。
主の前に自分が無力であり、主に全てを明け渡す経験、主に従う経験が必要なのです。
私たちは自我を捨て、主に従うという決断が簡単ではない。辛く苦しいものであるという経験を通し、主に死にまで従ったイエスさまを少し理解できるのです。
イエスさまの十字架の愛・・・私たちに神さまの愛を与える為に、イエスさまは死にまで従いました。
その従う難しさ、苦しさは他の人から聞くだけでは実感が難しいのです。
本当に心から、主に会いたい。主の愛を感じたい。主の愛に満たされたい・・と節に願うのであれば、
私たちは、主が私に下さる十字架を受け取り、主に明け渡し従うという選択をするしか方法がないと思います。
主が下さる私への十字架。
問題が生じた時に、その問題への解決を求めるのではなく、「主が今私に語ろうとしている事を悟る事が出来るように求める」
苦しさや寂しさ、痛みからの解放ではなく、主の語りかけを聞きたいという祈りをする。
これが、自分の十字架を背負うという事です。
自分の十字架とは、主が困難を与えるのではないです。
これは祝福です。
自分の弱さを痛感し、主の強さを知るのです。
主が今も生きておられる主であると実感出来るのです。
主が私を愛して下さっていると実感出来るのです。
主は、私たちに、もっと身近に主と共に生きる事を望まれています。
今日も、主を選びましょう!