主をどの様に証したいですか?【ヨハネ21:23】

2023年

そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか」と言われたのである。

ヨハネ21:23

今日の御言葉は、

イエスさまが復活された後、弟子になる前の仕事である漁師に戻ったペテロに会いに来てくれた時の場面です。

イエスさまは、3度「主を知らない」と言ったペテロに対して、3度「私を愛するか?」と聞かれました。

そして「愛します」と答えるペテロに対して、主は「私の羊を飼いなさい」と3度言われました。

そして、ペテロのこれからについて主が話されたのです。

それを聞いたペテロは、近くに居た同じ弟子でありライバル関係であったヨハネは、どの様な死に方をするのか、イエスさまに質問した時の答えが今日の御言葉です。

ヨハネがどの様に死のうが、死を経験する事がなかったとしても、あなた(ペテロ)には何の関係があるのか・・と言われたのです。

人それぞれ、与えられた十字架があるのです。

最近、私たちに与えられた十字架についてブログを書いていました。

人それぞれ、色々な問題に遭遇します。

それら一つ一つは、主が私に与えられた十字架とも言えるのです。

問題が生じた時、「この問題から早く解放されますように」と祈るより、「この問題を通して主が私に教えようとしている事を、悟る事が出来ますように・・」と祈ることを主は望まれている。

自分に与えられた十字架が早く過ぎ去る事だけを、ひたすら望むのではなく、

主は、私が与えられた十字架をしっかり受け取る事を望まれているのです。

そして、今日の御言葉を通して、人それぞれ、与えられた十字架が違うという事が分かります。

人の十字架を見て「あの人の十字架は軽そう・・」「それに比べ私の十字架は、、、」いうような考えを持ってはいけないのです。

私がするべき事は、主だけを信頼し、主にだけ従う事であり、他の人と比べる事ではないのです。

私たちは常に誰かと自分を比べてしまいます。

「どうしてあの人は、何をしても上手くいくんだろう」

「あの人は問題なく信仰生活を過ごせてるように見える」

「あの人は、凄く祝福されている」

「あの人は祈ったらすぐに導きが与えられてるのに、私はいくら祈っても主の導きを感じた事がない」

多くのクリスチャンは無意識に人と比べ、「どうして私は・・」と一人落胆している様に思います。

主は全てをご存じなのです。

人間は直ぐにこのような思考を持っているとご存じなのです。

だから聖書にちゃんと記録されているのです。

人と比べてそれが何になるのか。あなたは私が与えた十字架を背負いなさい・・

ここから分かる事は・・

主は一人一人に特別なオリジナルな人生を与えられているという事です。

人それぞれ与えられた十字架が違うように、

それらを通して主が教えてようとしている事、導く方法が違うのです。

私だけしか知らない主の姿があり、

私だけが経験する涙があるのです。

私だけが経験する困難があり、それを通して私だけが経験出来る主の姿を知る事が出来るのです。

私だけが流す涙があるから、私だけが感じる主との親密な関係性を持てるのです。

私だけが知っている主・・人は自分だけが知っている主を証しするのです。

自分だけが知っている主を証しするように、主が私にオリジナルの人生を与えられたのです。

私たちが感じる多くの問題は、時間の経過と共に、自分が望む結果でなかったとしても、いつか終わりが来ます。

自分に与えらえた十字架を受け取らず、

「主よ。助けて下さい。この問題を解決してください!押し潰されそうです。」と主が今教えようとしている事柄を受け取らず、

痛みが去るようにだけ願い、十字架を受け取らなくても、時間の経過と共にいつかは問題は終わりが来るのです。

その時、どの様な証になるでしょうか。

「主が共にいて下さり、嵐の中でも耐える力を与えられました」と証しすることも出来ます。

しかし、主の十字架を受け取り、主の御声を聞こうと集中する事を選択する者の証は・・どうでしょうか。

主が今も生きておられ働かれる、自分の想像を超えた事をされる主を体験できるのです。

自分が想像も付かないシナリオを主は持っておられます。

その証をする者へと変えられるのです。

始めの「嵐の中でも耐える力を与えられた」と言う証も立派な証です。この様に証しするのが間違えてはいないのです。

しかし、主はもっと大きな体験をさせたい、もっと自分の力を感じて欲しい。主が偉大であり、今も生きていると知って欲しい・・・

と思って主が十字架を与えられるのです。

問題解決を祈る事は間違ってはいません。

早く痛みが去るように祈る事も間違ってはいません。

しかしそこにフォーカスし過ぎないで、この問題を通して主が私に何を教えようとされているのか・・に、フォーカスするのが、「十字架を受け取る」と言う意味です。

今日の御言葉を読んで、私は主をどの様に証する者になりたいんだろう・・と考えさせられました。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩編119:71)」と証できる者になりたいです。

主が私に十字架を渡そうとされる時、腹をくくって十字架を受け取る事が出来ますように・・・

問題が生じる前から、常に祈り準備する必要があります・・・

今日も、主と共に歩み、主の姿を知る一日となりますように!

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