神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。
彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
ローマ1:20-25
世の中には、毎朝、目覚めるのが恐ろしく感じる人が居ます。今日も一日、生きて行かなければならないと考えると、耐えがたい苦しみ、悲しみを感じるのです。孤独と寂しさや、永遠に続くように思われる虚無感にさいなまれている人は少なくありません。
どうしてこのように感じるのでしょうか?
「何のために人間が、自分が生きているのか分からない」からです。 自問自答を繰り返しますが、答えを見つける事が出来ないのです。
ただ単に、寝て起きるだけでは、虚しく寂しく、意味がないように思うのです。それだけでは、心に大きすぎる穴が開いてしまっているように感じるのです。 いっそう。自分が動物であれば、こんな思いをせず生きていけたんだろうなと思うのです。
ですから多くの人は、この様な虚無感にさいなまれたくないという本能もあり、趣味を持ち、何かに没頭し、充実した時間を過ごそうとするのです。
ゴルフをしたりサッカーや野球、テニスやヘルスに行ったり、また旅行やネイルを楽しんだり、髪型や服装を変えてみたり、ボランティアに精を出す人もいます。
人が何かに没頭しようとするのは、生きがいのある生き方を求めている現われです。
バートランド・ラッセルという哲学者も「趣味や生きがいは多くの場合、根本的な幸福の源泉ではなくて現実からの逃避の方法である」と言っています。
趣味を求めたり、旅行したりなど、私達が求める生きがいは、本当の生きがいというものを見出せなくて一時しのぎの逃避なのです。
神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記1:26~27)
主は私達人間だけを、特別な意味を持ち神の似姿に造られたと語っています。
主は人間を「意味と目的」を持って造られたからです。だから人間は、生きる意味、生きがいを求める存在なのです。
主によって造られた私達は、本来は「意味を持って生きること」ができるのですが、造り主である主から離れ、主を忘れた時、生きる事が虚しくなるのです。
アダムとエバが、主から離れた生き方を始めた時、虚しさも始まったのです。
虚しい思いをかき消すように、自分がそれぞれ”神”とするものの奴隷となってしまうのです。自分の利益や幸せを求めるようになるのです。互いにそうするので、結果、様々な争いが起こってしまいます。
もともと主は、私達を素晴らしいものとして、神の似姿に造って下さったのです。生きがいに翻弄されず、喜びと感謝を持って生きる事ができる筈だったのです。
ところが造って下さった主を忘れた時、私たちには先ず主への感謝がなくなりました。「与えられたている。生かされている。」という心をなくし、不満と文句だけが残るのです。
反対に、私たちが主への感謝に溢れて来る時は、日々の生活が生き生きとします。 私達を生かして下さっている神が、私達を目的と使命を持って造って下さったからです。
だから私たちは、私たちを創造して下さった主のもとに立ち返る必要があるのです。心にある埋める事が出来ない空洞は、主によってのみ埋める事が出来るのです。私たちの造り主だからです。
私たちが主のもとに立ち返る為に妨げがあります。
「罪」です。自分の罪を主に告白し、赦しを得る必要があります。主は聖い方です。私達が罪を持ったまま、神様からの恵みや力や命、希望、そういったものを頂く事は難しいのです。
主に罪の告白をし、生きる喜びと主の恵みに満たされてください。
生きる力と希望が湧き上がります。