3本の木 ~主の足跡を見つける~【Ⅱテモテ2:20-21】

2022年

大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことをに、ある物は卑しいことに用います。

ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

Ⅱテモテ2:20-21

「3本の木」という絵本をしっていますか?

クリスマスなどに何世代も語り継がれたアメリカの民話です。

 

小高い山のてっぺんに3本の小さな木が立っていました。仲の良い3本は、将来の夢がありました。

1本目の木は、きらきら光る宝石でいっぱいの宝石箱に。

2本目の木は大きな船になって遠い外国に行きたい。

3本目の木はずっとここにいてみんなが見上げるような高い木になりたい。

それから何十年がすぎ、3本の木は、大きくて立派な木になりました。ある日木こりがやって来て木たちを切り倒しました。

1本目の木は、宝石箱ではなく家畜の「かいば桶」になりました。

2本目の木は、大きな船ではなく「漁師の小船」になりました。

3本目の木は、材木にされ使い道が決まらず、小屋の隅に「放ったらかし」にされました。

月日は流れ、ある日、若い夫婦が家畜小屋にやって来て、生まれたばかりの赤ちゃんを1本目の木で作られた「かいば桶」の中に寝かせたのです。宝石箱になりたかった木は、自分が神様の赤ちゃんを入れる箱になっている事に気付きました。

またある日、2本目の木で作られた船の船乗りたちは、激しい嵐に見舞われま遭いました。すると船に乗っていた一人の男が、風と湖に「静まれ。」と言うと、嵐はすっかり静かになりました。大きな船になりたかった木は、すごい人が自分に乗っていることに気づきました。

最後に、ただの材木になった3本目の木は、ある人に引き取られ十字架にされました。偉大な方の大切なお仕事をお手伝いを出来たことに気が気付きました。

三本の木のどれもが、自分が夢に思い描いたような姿にはなれませんでした。しかし、試練に耐えることで彼らの想像を超えた、もっとすばらしい形で彼らの望みは叶えられたのです。

というお話です。

3本の木はすべてイエス・キリストのために用いられました。

最初に抱いていた各自が持った夢は実現できませんでした。

しかし、イエスさまのために用いられ、何にも代えがたい幸せを手に入れる事ができました。

私たちも、夢や目標を持ち生きて行きます。それらは、自分が想像でき、自分が考える事が出来る「良い物、魅力あるもの」だからです。また、私たち人間は、その夢に向かって努力し、成就することに幸せや喜びを感じるのです。

「宝石を入れる箱になりたい」という、魅力ある夢は想像は出来ましたが、「神さまの子を入れる器」になれるとは思っても見ませんでした。

「大きな船」という憧れを持つことができましたが、世界の人々に記憶される小さな漁船として、主の奇跡を聖書に残す役割を、2本目の木は果たせたのです。

3本目の木の「みんなが見上げる高い木」になることを望みましたが、人類の救いの道を切り開く十字架になる事が出来たのです。国も時間も超越し、十字架を見る度に神様の愛を心に刻むことができる木になれたのです。

自分たちが出来る想像を超えた、もっと素敵なものに用いられたのです。

しかし、重要な事は、

まず「飼い葉おけ」となり「ありふれた漁船」となり「用途のない材木」となり「ほっておかれる」時間を過ごしました。

主は私たちに良いものを与えて下さいます。

しかし、それは一見、私たちの目には「価値のないもの」に見える事が多いかもしれません。

多くの人は、そこで諦めてしまう事が多いと思います。

「自分は失敗した」「自分には夢を叶える事が出来なかった」と。

飼い葉おけが、イエスさまを入れる飼い葉おけになるまで、ありふれた漁船が、イエスさまの奇跡を体験するまで、ほっておかれた木材が、十字架になるまで、時間がかかるのです。

今日の御言葉、

器は、金もあれば銀の器もあり、木の器、土の器があるというのです。私たちはどの様な器でしょうか?

皆が金の器になりたいと思うかもしれません。

しかし、それらは用途が違うだけの話なのです。木や土の器であったとしても「Made by christ」なのです。全ての器は、主が造られたのです。

金だから価値があるのではなく、土だから価値がないのではないです。

「Made by christ」だから全てに価値があるのです。

自分が思い描いていた夢や目標が達成できなくても、私たちの人生は失敗ではないのです。

私たちは自分の想像内でしか物事を計画出来ません。

主の想像とは広さも深さも高さも違います。

私たちが、与えられた命を本当に喜んで生きることを主は望まれています。

私たちは、思い通りの人生でなかったとしても、落胆する必要はないのです。

主を信頼し、主の中を歩み続ければいいのです。

主の計画は、後で分かるのです。主の計画の中にいる時は気付かないのです。

飼い葉おけ、ありふれた漁船、忘れられた木材・・この時は、主の計画の中なのです。

もっと時間が経ってから、主は私に素晴らしい計画を持っていて下さっていた!と気付くのです。

しかし、気付かない人もいます・・・

主の計画の中にいる時に、人生をあきらめてしまう人。失望してしまう人。やけになる人。

また、人生を振り返らない人も、「このような流れで主は私を導いて下さっていた!」と気付かないのです。

私たちは、主を信頼し、主の思いの中を歩み、

時折人生を振り返り、主の足跡を見つける事が大切です。

自分の今までの人生、見つめ直してみましょう!

主の足跡が見つかると思います!

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