自分は良い人間だと思っている私【箴言4:23】

2022年

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

箴言4:23

「心」のあり方について、ソロモン王の言葉です。
新共同訳では、「何を守るよりも、自分の心を守れ。 そこに命の源がある。」
心を守る事が命に繋がっているのです。
「自分の心を守る」とはどういう意味でしょうか。
誰かに傷付けらるような事がないように、自分の心を守りなさい。ガードを高く強く持ちなさい・・・と言う意味ではないと思います。
その反対です。
自分か感じた不安、苛立ち、怒りなど、コントロールできず暴走的に、誰かに攻撃的にぶつけないように。心赴くまま自分の思いを暴走させ、イライラを人にぶつけ、人や自分を傷つけないように。
「自分の心を治めなさい」と言う意味だと思います。
「マイナス的な事が自分の中に入って来ないように」ではなく、「自分からマイナス要素を出さないように」です。
心は、私たちの一番奥深くにある「中心部分」。
心にあるものが、言葉として発せられ、私たちの行動に現れるのです。
心のありようが、私たちの人生に影響するのです。
自分の心を治めるって難しいです!
力の限り、見張って、何を守るよりも、って書かれています。「必死になって自分の心を守れ」と言われているのです。
必死になって守ろう!! と思わないと、
自分の中の「不安、苛立ち、怒りなど」は、勝手に暴走する力を持っているのです。
自分の心が「いのちの泉は心からわく」「命の源」であるべきなのに、人を傷つける刃物となってしまってはいけないのです。
自分の心を守ることが、自分の命に繋がっているのです。
心には「霊の王座」があって、「肉体の神殿の至聖所」だからです。
そしてその至聖所には、貯水地があり、命の泉が湧いているのです。
だから、自分の心を清らかに保つ必要があるのです。
私の好きな御言葉、
「 怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。(箴言16:32)」
初めてこの聖句を読んだ時、驚きました。
自分の心を治めるより、町を攻め取る方が簡単だと聖書は言っています。
私には、町を攻め取る力なんて全くありません。ならば、自分の心を治めるのは、私には不可能なのです。
暴走する力を持つ自分の心を、コントロールできない存在なのです。
どの様に、自分の心をコントロールし守る事が出来るのでしょうか。
自分が「善人ではない」という事を忘れがちなのです。
私はどこかで、自分は「自分は良心的」「出来るだけ正しく生きている」「人に差別をしていない」と思っています。
主の目はどうでしょうか。
聖書には「善を行う人はいない。ひとりもいない。(ローマ3:12)」とあります。
心のどこかで、「自分は正しい」「自分は悪くない」と思い、勝手に自分を正当化し、「自分は良い人間に値する」と安心してしまっているのです。
必死に守らないといけないのに、安心してしまっているのです。
町さえも攻め取れない私は、主に依り頼むしか方法がありません。
日々、聖書を読み、素直に御言葉を自分の中に受け入れ、賛美し、祈っていく必要があります。
自分の心が守られるように、日々祈り、自分を正当化せずへりくだる事が大切なのです。
私たちは、自分の口で主に感謝したり信仰告白をします。しかし、同じ自分の口で人を傷つける言葉を発する事も出来るのです。
今日も自分の心を守れるようにと、自分の心に気を配り、良いもので満たされるように祈ります。
今日も、主によって私たちの心が良いもので心が満たされますように!!
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