自己憐憫が引き起こすもの【Ⅰコリント10:13】

2022年

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

Ⅰコリント10:13

 

こんな気持ちを持ち続けた事はないでしょうか?

「誰も私の事を理解してくれていない」「自分のこんなに苦しい気持ちを誰も理解してくれない」「自分は本当に不運だ」「自分は幸せになってはいけない」「自分程、哀れな人生の人はいない」「世の中は不公平だ」「他の人は自分より楽で幸せな人生を送っている」

聖書の中にもそのような自己憐憫を持った人の記録があります。

給仕で疲れたマルタや(ルカ10:40)、友人との押し問答の果てに誰も近づけなくなったヨブ(30:26-28、32:1)です。

自己憐憫はどうして良くないのでしょうか?

まず、自己憐憫に陥ってしまうと、状況は変わらず、悪化する事が殆どです。自分で一層深みに陥る行動です。

また本当の原因を見つける事が出来ません。原因には目を背け目をそらすと、自分を正当化出来るのです。他人の関心を引こうとします。哀れみや同情を求めるのです。

同情や哀れみは一時は手に入れる事が出来ても、他人が自分の人生を代わりに歩んでくれたり、人生の責任を取ってくれる訳ではないのです。 自己憐憫は、否定的な感情が心も体も支配します。体調を崩す恐れもあります。人生のあらゆる局面を、良くない方向に受け取ってしまうのです。人間関係も悪化するでしょうし、辛い人生となってしまいます。

 

今日の聖句は有名な御言葉です。

私たちがこの世で経験する辛い経験は、国境もありませんし、過去も現在も未来も同じです。あらゆる人々が経験したことがある出来事で、耐えられない試練を与えないし、耐え忍ぶ力を与えると書かれています。

まず、自分の視点で物事を見るのではなく、主の視点から見る必要があります。

先日のブログに書いた、ダビデとゴリアテの話の様に、エルサレムは絶対絶命で奴隷になるしか選択肢がなかったのです。しかし、主が巨人ゴリアテの相手として選んだのは少年のダビデです。

士師7章を読むと、ミデアンとの闘いに際して、主はギデオンに必要な軍勢はたったの300人しか準備されませんでした。四面楚歌の状態で、それは全くの不可能な人数です。そこに主の計画があったのです。

私たちは、それを信じる必要があります。「今、目の前はかなりのピンチ。絶対絶命で四面楚歌状態。私には出来ないけれど、主にとっては何てことない状況だという事」

祈るのです。

「主よ。私にはどうする事も出来ない状況です。主に委ねます。主が助けて下さい。主の目で物事を見る事が出来ますように。主の思いが私の思いとなりますように」

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