本当に自分が望んでいるものって何だろう【民数記14:1-3】

2026年

全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。
なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」

民数記14:1-3

韓国の歴史ドラマを見ていると、

決まって牢獄の場面がでてきます。

敵の策略にはめられ、

無実の罪で捕らえられた人が、牢獄の中から叫ぶ場面。

「出してくれ! 私は罠にはめられたんだ!」

必死に無実を訴え、ここから出してくれと懇願する。

ところが、翌日になって看守がやって来て、

「出ろ!」と言うと、今度は抵抗する。

「何をする! 離せ!」

あんなに出してくれと叫んでいたのに、

いざ出られるとなると、出ることを拒み、牢獄に留まろうとする(笑)

もちろん、外に出たら処刑されるのかもしれない。

拷問が待っているのかもしれない…。

牢獄から出た先が分からず、怖くて抵抗するんだと思います。

私は、何年も前から、この場面を見るたびに、

何か引っ掛かるものを感じていたのです。

何だろう。

考えてみると、これは牢獄の場面だけの話ではないのかもしれない…。

私たちは、今の状況から抜け出したいと思うことがある。

今の仕事を辞めたい。

今の苦しい状況を変えたい。

もっと自由になりたい。

けれど、いざ変わることが現実になると、不安になったりする💦

今より悪くなったらどうしよう。

新しい環境でうまくやっていけるだろうか。

このままのほうが、まだ安心なのではないか。

そうして、変わりたいと願いながら、変わることを恐れるのです。

…人は、いったい何を求めているのだろう…。

牢獄にいる人が本当に求めているのは、

ただ牢獄の外に出ることではないはず…。

安全に生きること。

無実を認めてもらうこと。

自由に生きること。

つまり、牢獄から出ることそのものが目的なのではなく、

その先にあるものを求めているはず。

だからこそ、外に出ることが危険を意味するなら、

捕らえられた人々は抵抗という反応を見せるのです。

そう考えると、彼らの行動は矛盾しているようで、

実は矛盾していないのかもしれない。

そんな事を考えながら、

思い出したのは「出エジプト」の話。

エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエルの民は、

主によってエジプトから救い出されました。

しかし、荒野で食べ物がなくなると、

彼らはエジプトでの生活を懐かしみ、

あの場所で死んでいたほうが良かったとまで言う💦

奴隷としての苦しみから解放されることを願っていたはずなのに、

自由になった先で困難に直面すると、

かつての生活に戻りたいと思う💦

彼らは自由を望んでいなかったのか…?

そうではないはず。

ただ、自由になった先に、

これまでとは違う苦しみが待っていたという事実。

エジプトでの慣れ親しんだ苦しみと、

エジプトから出た後の「先の見えない不安」。

人は、時に前者を選ぼうとする…💦

今までの生活が苦しかったとしても、

少なくとも、その苦しみには慣れている…。

もしかしたら、私たちが変化を恐れるのは、

単に勇気がないからではなく…

自分が何を失うのかは分かっていても、

何を得られるのかは分からない。

だから、今の苦しみから離れたいと願いながら、

その一歩を踏み出せない…。

これは単なる矛盾ではないような気がする…。

自由を求めながら、自由を恐れる。

変化を望みながら、変化を拒む。

救いを求めながら、救いの先にある未知の世界におびえる。

人は、苦しいと分かっている場所よりも、

何が起こるか分からない場所のほうが怖いのかもしれない。

今までの苦しみは、少なくとも知っている苦しみ。

けれど、その先に何が待っているのかは分からない。

だから、今の状況から抜け出したいと願いながら

その一歩を踏み出すことができないのかも…。

そんなことを考えていたら、

ふと、自分の信仰についても考えさせられた。

私は、主に助けを求める時、

本当に主に委ねているのだろうか。

「主よ、導いて下さい」と祈りながら、

心のどこかでは、

「どうか、私の願う通りに導いて下さい」

と願っているのではないだろうか。

自分が思い描いていた道。

自分が望んでいた答え

自分が安心できる未来。

そんなものを期待しながら、

それを主の導きだと思いたいのではないだろうか。

けれど、もし主が私の想像していなかった道へ導かれたら…。

その先に何があるのか分からなくても、

私は主を信頼して歩んでいけるだろうか。

主に導いてほしいと願いながら。

本当は、自分が先の見通せる道を歩きたいだけの様な気がする。

そう考えると、あの牢獄の場面は。

私の姿かも…💦

牢獄から出たいと叫びながら、

いざ外へ出ることを求められると、恐れてしまう人。

その姿は、もしかしたら、

主に導いてほしいと祈りながら、

その導きの先にある未知のものを恐れている

私自身の姿なのかもしれない…。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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