さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。
ルカ6:37
人を批判するのをやめよう。
人を責めるのもやめよう。
人を裁き、批判し、罪に定めることができるのは主だけである。
私たちは自分の領域を超えた判断をしてはいけない。
自分を否定するのもやめよう。
勝手に自ら自己嫌悪に陥ることもいけない。
他人だけでなく自分を罪に定めるのをやめよう。
これも私たちが行ってよい領域ではない。
小さい我が子が失敗してしまい、親に許されたにも拘わらず、
ずっと自己嫌悪から抜け出さなかったらどうだろう・・・
人間が人を裁くのも、自分自身を裁くのも、両方とも主は嫌悪を覚えられる行為である。
人を責める行為は、実は自分自身も霊的に苦しむ行為である。
人を許してこそ、自分の霊も解放される。
「絶対に許せない!!」 と思うこともあるだろう。
傷つけられた私は、長年その傷の痛みに苦しみながら生きているのに、
傷つけた人は傷つけた記憶もなく、平和な日常を暮らしている。
私は神様に沢山文句を言ったことがあります。
本当に沢山泣いて沢山の文句を言いました。
「主はすべてをご存じのはず。私の痛みもご存じのはず・・・なのに・・!!」
傷ついて15年の月日が経ち答えを貰いました。
「あなたはこの15年間、非常に苦しんで、もがいて生きてきたことを私は知っている。
でもね。あなたが苦しんだのと同じ期間、同じ苦しさを相手の方の霊も苦しんだんだよ。
あなたが赦すことにより、あなたは苦しさから解放され、相手の方の霊も解放される。
握りしめたその手を私の為に開いて欲しい・・ これ以上苦しむ姿を見るのが辛い。
あなたも相手の方も私の愛する子どもだ。」
怒りの祈りを、泣きながら主にぶつけている時に、この言葉が心に瞬時に入ってきて
私の体を隅から隅までこの言葉が駆け巡った。
私は怒りの祈りより、もっと遥かに大きな声で泣いた。
苦しめば苦しむほど、赦すことはたやすい事ではない。
でも本当に、赦すことだけが解放を得る方法であり、
赦すことにより自由を得、癒しを得る方法であり、それは勝利である。
みなさんが、人を許し、解放され自由になられることを心よりお祈りします。