試練の意味【マルコ6:51-52】

2024年

そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。

マルコ6:51-52

私たちは聖書を通して、またイエスさまの弟子たちを通して学ぶ事が多いです。

今日の御言葉は、弟子たちだけで舟に乗っていた時に、嵐に遭い沈みかけていた時に

イエスさまが現われ、嵐を収められた場面です。

弟子たちはこの時、湖の上を歩くイエスさまの姿に驚きました。

また嵐を静められるイエスさまにも驚きました。

どうして驚いたのでしょうか。

確かに、人間は湖の上を歩く事は出来ないし、嵐を静める事も出来ない…

人が出来ない事をされるのを見たから「非常に」驚いたのです。

…しかし、この湖の上を歩く姿を見た数時間前に、イエスさまは5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人を食べさせるという奇跡を起こされています。

あり得ない、考えられない事を弟子たちは目にして体験していたのです。

少し前にこのような大きな奇跡を体験したのに…

もっと言えば、イエスさまが病人を癒したり、悪霊を追い出したりする姿も、弟子たちは何度も見ているのです。

しかし、弟子たちは今回も「非常に」驚いたのです。

その理由として、

「彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたから」

5つのパンと2匹の魚の奇跡を体験したけれど…

「うわーイエスさまって凄い!」と思いながらも、

目の前にいる大勢のお腹を空かせた人たちに、配り続ける事に気を取られていたのかもしれません。

主の奇跡を、自分の事として受け取る事が出来なかったのです。

ここから分かる事は、

イエスさまの奇跡を体験しても、人は直ぐに忘れてしまう。

奇跡を見ても「それはそれ」と、自分とは切り離してみてしまうのです。

そして、目の前に嵐が起こると、目も心も嵐に集中してしまうのです。

5つのパンと2匹の魚の奇跡を体験しても、それを悟る事が出来なかった弟子たち。

イエスさまは時を置かずに、弟子たちだけを舟に乗せたのです。

そして数時間後、イエスさまが弟子たちに現れたのです。

イエスさまが全能であり、神の子であると悟れない弟子たちに、

主が試練を与えられたのではないかと思います。

このまま弟子たちが主を悟る事をせず、時間だけが過ぎれば、弟子たちはどうなるのでしょう。

いずれ、主は十字架に架かり復活し天に帰る時がくる。

残された弟子たちが、

揺るぎない信仰を持てるように。

何があっても主を選ぶことが出来るように。

そして、福音を伝える者へと変えられる必要があったのです。

だから、主は訓練をされたのです。

目の前にいるイエスさまが神の子であるという事を、弟子たちが本当に知るために。

嵐を起こされ、自分たちの無力さを知り、主の偉大さを知るために。

私たちが遭う試練も同じだと思います。

私たちが主を忘れないために。

主が今も生きておられる私たちの主であるという事を、私たちが悟るために。

自分の無力さを知り、主の偉大さを知るために。

主の奇跡も、恵みも、約束も…

私たちは直ぐに忘れてしまい、直ぐに目の前の状況に集中してしまうのです。

私たちも、主を悟る事がないのです。

「昔は結構、主を近くに感じていたけれど…」

「あの時は、凄く主を感じた…」

主が働いてくれない、主が応えてくれない…

ではなく、私たちが目の前の状況に心を奪われ、主を忘れてしまっているのです。

私たちは、時折、自分の過去を思い出す必要があると思います。

主がどの様に導いて下さったか。

湖に溺れるペテロを救い出したように、

罪に溺れていた私たちを主が救い出してくださったのです。

今、自分を取り巻く試練は、

「あなたは私を忘れていないか?」と、主が語られているんだと思います。

今日も、主を選ぶ1日となりますように!!

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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