主の前に富む者となる【ルカ12:13-21】

2024年
Christian friends joining hand and pray together over bible on wooden table

群集の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。
すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」
そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。
それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

ルカ12:13-21

今日、聖書を読んでいてこの御言葉が心に留まりました。

「自分のために蓄えても、神の前に富まない者」

今日の聖書の箇所を要約すると、

イエスさまを陥れようと論争が繰り広げられる中、突然一人の人が話し出したのです。

「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と。

論争が白熱した席で、空気を読まず、自分の財産を解決して欲しいと急に言い出したのです。

その問いに対してイエスさまは例えを用いて答えられました。

あるお金持ちの畑が豊作で、得た作物を蓄える場所がない。

だから、もっと大きな倉を建て、穀物や財産をそこで管理すれば、将来は安心して食べて飲んで生きていける。と考えたのです。

しかし、主はそのお金持ちに対して

「自分の魂はいつとられるかも知らずに…今夜とられれば、自分が蓄えたものは誰のものになるのか」

と言う話です。

ここでは、常に自分の財産について頭がいっぱいになっている人。

経済的に心配をしている人についての話です。

しかし今日、この個所を読んだ時に、少し違った感じを受けました。

始めに出てくる「遺産を分けて欲しい」という部分が、「天国での分け前(褒美)が欲しい」と感じたのです。

「私の天国での褒美(賞賛)はどれ程受けれるのでしょうか?」

「私の天国での褒美はちゃんと分けてもらえるんですよね?」

という風に感じたのです。

そう感じ、その思いのまま聖書を読んでいくと、

例え話はこのように感じました。

私は、良い信仰を持てるように沢山の努力をしました。

聖書を読み、積極的に学びを受け、祈りの時間を持っています。

聖書についても、人より多くの知識を得ていますし、

普通のクリスチャンより、多く主を経験しています。

証をしろと言われれば、話す事は沢山あります。

私は自分に出来る限り、良いクリスチャンとして歩んでいるつもりです。

私の心(倉)には、信仰が沢山入っている状態です。

どうでしょうか。私は人より少しは立派な信仰ではないでしょうか。

私の信仰は豊かな信仰ではないでしょうか。

主は私を評価して下さっていますよね?

主は私をどれほど、評価して下さるのでしょうか。

天国で称賛して頂けますよね?

と感じたのです。

そして、最後の部分の御言葉は、

「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者…」

例え話に出てくるお金持ちは、自分の為だけに倉に作物を貯め込み、そして安心しました。

そのように、信仰も同じかもしれない…と思ったのです。

自分の信仰の成長を望み、

努力をし(努力することは大切ですが)、

聖書の知識を増やし、信仰書を読み、祈り…

自分の信仰が成長することは大切です…

しかし、作物を倉に入れ込むように、

自分の中だけで信仰を豊かにすることは…

どうなんだろう…

それが悪い事ではないと思いますが、

信仰は、自分の中だけに留めるものではなく、

主が望まれているのは、

私たちが兄弟姉妹と分かち合い、励まし合い、愛し合っていく。

また主を知らない人々に福音を伝えて行く事ではないか…

自分一人で聖書から恵みを受けることももちろん大切だけれど。

自分の中だけに留める信仰より、

小さな信仰であっても、それを伝える者を主は喜ばれるのではないか…と感じたのです。

「自分のために蓄えても、神の前に富まない者」

「富む」とは、沢山持つ、豊富という意味。

たとえ、大きな信仰の持ち主でなくても、

自分だけが豊か(知識や経験)になろうとする信仰ではなく、

たとえ小さな信仰であっても、

最近信仰を持ったとしても、

知識が少なくても、

福音を知らない人に救いを伝え、

互いに分かち合い、互いに祈り合い、愛し合う姿を主は喜ばれるのではないか…

主はそのような者を「豊かな信仰」だと評価されるのではないか…と感じました。

私は… 主の前に富む信仰者となりたいです…

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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