ハレルヤ。私のたましいよ。主をほめたたえよ。
私の生きているかぎり、主をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。
詩篇146:1-2
今月で、私の父親が亡くなって3年。
母親が亡くなって12年になります。
毎年3月には兄弟が実家に集まり、色々な話をします。
実家にあるアルバムを見ながら、ふと思い出したことがあります。
昔、母親が凄く気にかけていた年配の方がいました。
母親に頼まれて数回、一緒にその年配の方の家にお邪魔したことがありました。
母親はその方の家に何年も通い続けていました。
「誘っても教会には行かれないけど、家庭礼拝はしてくれるのよ」と言っていました。
母親は訪ねる度に、聖書を開き賛美をして過ごしていました。
頼れる身寄りがなく、寂しい晩年・・
私の母親は自分の母を高校生の時に亡くしています。もし、生きていたらこの年配の方と同じぐらいの年齢だったらしく、
自分の母を重ねて見ているようにも感じていました。
この方は、私が初めて会った時から物忘れがひどい状態でした。亡くなる前は、誰が誰か分からない状態になっていました。
私の母親が顔を見せても、誰か分からず、母親が自分の名前を伝えると「ああ~!来てくれたの?」と喜び笑顔になります。
しかし5分もせず、今、目の前にいる母親が誰なんだろう?と疑問に思うようでした。
母親は会話の中で何度も意図的に自分の名前を伝え、その度に「ああ!」と喜びを感じておられました。
母親は「一回行っても、何度も喜んでもらえる!」と言っていました。
そして「痴呆って人は嫌がるけど、神さまが与えてくれたプレゼントだと思う・・」と言っていました。
晩年、体力も記憶力も衰えてきます。今まで出来ていたことが、出来なくなり、直ぐに忘れる事が多くなります。
そうなると、人間は凄く不安になるのです。孤独になり恐怖を感じるのです。これから先、私はどうなるんだろう・・・って。
「不安に襲われ苦悩しないように、主がその不安を取り去られてると思う」と言っていました。
何度か訪ねる度に・・
会うたびに記憶力の低下が進んでいるのが目に見えて分かります。
母親が名前を伝えても、反応も薄いのです。目の前の人が誰かも分かって居られず、かと言って「誰なんだろう?」という疑問も持たれていないように見えました。
3人で家庭礼拝をしました。
私の母親は、讃美歌「主われを愛す」を凄く愛していました。
家庭礼拝毎に歌っていました。
最後の家庭礼拝でも「主われを愛す」を歌うと、その年配の方・・急にしっかりした声で讃美歌の本を見ずに賛美をしたのです。
そして賛美が終わると「主よ・・感謝します・・」と言われたのです。
その姿に、私も母親も感動しました。
小さな3人での礼拝を終えると、その方はまた無表情に戻られました。
この姿を見た数日後、天に召されました。
私はこの時、20代・・
「この年配の方の姿を、主が私に見せられたんだな」と感じました。
この様に生きなさい・・と。
私たちは年を重ね、出来ない事が増えていき、忘れる事が増えていっても、
魂は覚えているのです。
全てを忘れても、自分の口と心が主を賛美し崇める事が出来ますように。
人生の最期に「主よ。感謝します」という言葉を発する事ができますように・・
人生の最期は繕う事はできません。
今までの人生が反映されるのです。
人は自分の生きざまが人生の最期に反映されるのです。
今から・・・準備しないと・・
この世での最期、主に感謝して、主のもとに行けるように・・
今日も、主と共に歩み、準備を1つ積み重ねていきたいと思います。
また、この小さくて僅かな母親の働き・・・
誰かに愛情を注ぎ寄り添う事の大切さ。
その愛情を通して人は心を開くのかもしれません。
隣人に主の愛を分ける者となりたいです・・・
今日も、主の中で祝福された一日をお過ごしください!