どこを見つめ歩めば良いのか【伝道者の書3:11】

2023年

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。

伝道者の書3:11

自分が思い描いている事と、全く違う方向に人生が進む事ってないですか?

望む方向とは違う所に、想像していた結果とは違うものに・・導かれたりする事はないですか?

聖書には沢山このような状況が記録されています。

マルコの福音書に書かれている(5:22~43)

会堂管理者ヤイロは、自分の幼い娘が死にかけている時に、娘の傍を離れ、イエスさまの足元にひれ伏し、「娘を助けて下さい」と懇願しました。

イエスさまは、ヤイロの家に向かわれ始めた時、

イエスさまは、長血を患った女性の為に足を止められ、時間を割いて女性の身体と心を癒したのです。

女性に時間を費やしている間に、ヤイロの家から人がやって来て「娘は死んだ」と聞くのです。

ヤイロの気持ちはどうだったでしょうか。

最悪ではないでしょうか。

イエスさまが急いで娘に駆け寄ってくれれば、助かったかもしれないのです。

横入りされ、時間を奪われたせいで娘が生き残る機会を奪われた‥と考えたかもしれません。

女性がイエスさまの足を止めなければ、娘は助かったかもしれない・・

しかし、娘が死んだ今、どうする事もできない・・という、取り返しのつかない事態に追い込まれたのです。

もう・・希望が残っていないのです。

全てが終わってしまったのです。

私たちの目には、ヤイロは絶対絶命な状態で、もう時すでに遅し・・「助かる可能性がある時間」が過ぎさったのです。

全てがマイナスに動いている様に見えても、主の目にはそうではないという事を、ここから学ぶ事が出来ます。

主にとっては何も変わってはいないのです。

決して、マイナスには動いていないのです。

私たちが思っている「時」とは、私たちが知っている、私たちの常識のタイムリミットであり、

「主の時」は、まだ終わっていなかったのです・・!

私たちの目には、事態がマイナスに動いて見え、希望を持てずに落胆してしまいます。

主は、そんな私たちをご存じなのです。

だから、目に見える状況に心を奪われず、

「恐れないで、ただ信じていなさい。」と主は言われるのです。

私たちは、教会やネットを通して、素晴らしい主の証を聞きます。

主が生きておられ働かれているんだ・・と証を通して感動します。

でも、ふと考える事はないですか?

どうして主は、私には働いてくれないんだろう。

他の人は祈りが聞かれ、主を体験しているのに・・

私も、他の人と同じように祈り求めているのに、これと言った答えを貰えない。その上、状態はますます良くない方向へ・・・

他の人には働かれ、自分は蚊帳の外のように感じたりはしないでしょうか。

もしくは、主に従ったのに・・状況が悪くなることもあります💦

イスラエルの民も、モーセを筆頭にエジプトから脱出し、主が与えて下さる約束の地へ移動しました。

主は民に、一度通り過ぎた所にもう一度戻るように言われ、海辺で宿泊するように示されたことがありました。

これは簡単なことではないです。成人男性だけで60万人。女性や子ども、家畜までいるのです。

主に従い、民は戻ったのです。

そして、主が示された海辺で、エジプト人の大軍が攻めて来たのです。

万事休す・・💦

主に従ったのに・・皆殺しにされる恐怖を味わったのです。

だれが、この先、目の前の海が二つに分かれ、渇いた地を渡ると想像できたでしょうか。

主は、民が主を体験する為に、主が「自分の神である」と、心と魂に刻む為に困難を与えられたのです。

主の御名を呼び者に、主は答えて下さいます。

イスラエルの民は大きな御業を体験しても、直ぐに忘れ、不平不満を続けました。

「エジプトにいた時(奴隷)の方が良かった」とさえ言ったのです。

私たちは恵みを頂いても、直ぐに忘れてしまう愚かさを持っています。

本当に主は私に働いてくれない、沈黙をされる主でしょうか。

「私には答えてもらえない・・」と少しでも感じるのであれば、今、立ち止まり過去を振り返ってみる時間を持つのも良いかもしれません。

主は私たちの創造力を遥かに超えています。

私たちのものの見方と次元が違うのです。

今日の御言葉にあるように・・・私たちには・・分からない、悟れない、見極めきれない事が多いのです。

私たちがするべき事は・・

目の前の状況に心を騒がせず、主を信じることです。

主は今日も言われます・・

「恐れないで、ただ信じていなさい。」

主を見上げ歩む一日となりますように。

タイトルとURLをコピーしました