さあ思い出せ。だれか罪のないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。
私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。(ヨブ4:7-8)
祝福とは、何でしょうか。
私たちは簡単に考えてしまいます。
何か大きな成功をしている人も見れば「うわーすっごく祝福されてる!」と感じます。
自分自身も祈りの願いが叶えば、主の祝福を感じます。
反対に、祈っても祈っても答えられず、事業が失敗したり、思っていた進学や就職が出来なかったりすれば、祝福がなかった。祝福が閉ざされたように感じます。
上手くいかないのは、祝福されていないから。祈っていないから。ではなく・・・
良い事があれば祝福されていて、良くない事がおこれば、祝福が閉ざされている。のでもない・・・
真面目に奉仕をし、毎日聖書を読み、祈っている人も良くない事も起こります。
病にもなり、また失敗もするのです。
今日の御言葉は、ある日突然、不運に見舞われたヨブ記に出てくる御言葉です。
ヨブはある日突然、10人の子どもが一度に死に、財産を失い、重い皮膚病を患いました。
そこに友人が3人慰めに来たのです。
ヨブの変わり果てた姿を見て、7日7夜、何も話せず黙り込んでいたようです。
そして、慰め始めるのですが、ヨブの痛々しい姿を見て「罪があるからではないか? 早く悔い改めをしろ」と言うのです。
今日の御言葉は、その時のセリフの一部です。
8節に心が止まりました。「私のみるところでは・・・」という言葉です。
友人はヨブに「罪のない人が滅びる事があるだろうか。正しい人が絶たれる事があるだろうか。」と言うのです。
そんな人はいないだろう・・・
この世界は、不幸を耕し、害毒を蒔く者がそれを刈り取っている・・自業自得なのだ。
と、言っているのです。
これらは、友人が今まで生きてきて経験上の、原因と結果の因果関係なのです。
これは本当に正しいのでしょうか。
ユダの心を突き刺す友人の言葉は、この友人本人も言っている通りに「私が見たところ・・」なのです。主からの言葉ではないのです。
正しい者が祝福され、そうでない者は祝福されないというのは、友人の判断基準なのです。
友人は、正しさの基準を自分で作っているのです。
これは、私たちも簡単にしてしまう失敗です。
私もよく子どもに「普通は・・」「多くの人は・・」「一般的には・・・」と言い、だからあなたは間違えていると話してしまいます💦
世の中の価値観、常識は、信仰に持ち込んではいけないのです。
正しいか間違えているかを決めるのは神さま。
今、目に写っている結果だけで判断しない。
世の中の価値観を信仰に持って入らない。
良い事も悪いことも、主が造られたと書いてあります。
良い事にも悪い事にも、主からのメッセージがあるのです。
悪い事は、自分の目に悪く映るだけかもしれません・・
私は求道中に「星野富弘さん」を知りました。
口に筆をくわえて、美しい主の創造物を描かれています。
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)
この御言葉を引用されているのを見て、驚きました。
私の価値観で、「不運」と感じ、その様な目で物事を見てしまう事でも、この方の信じている神さまによって、人生はどの様な状態でも勝利出来る。
自分の現状と心の満たされ方は比例しないんだと感じました。
良き物もそうでない物も、主が与えられた物・・
今日もそれを心に記憶し歩みたいです。
今日も、主の中で豊かな一日をお過ごしください!
順境には楽しめ。逆境にはこう考えよ。人が未来について無知であるようにと神はこの両者を併せ造られた、と。伝道の書7:14(新共同訳)