未熟な私の信仰【ヤコブ1:19-20】

2026年

愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
人の怒りは、神の義を実現するものではありません。

ヤコブ1:19-20

こんな証を聞きました。

70代の牧師先生の話です。

牧師になりたてだった25歳の時。

凄く田舎で牧会を始めました。

その村にはクリスチャンがいなかったのです。

村の行事や手伝いに積極的に参加し、

福音を伝えながら、一人ひとりと福音を受け入れる人が出て来たそうです。

しかし、村の人たちの仕事は農業。

農繁期や収穫の時期になると、

人々は、朝早くから夜遅くまで仕事をしなければならないのです。

ある主日、牧師先生が眠っていると、

誰かがドアをノックするのです。

時計を見ると、朝の4時。

「どうしたのですか?」と聞くと、

「これから仕事に行かなければならないので、

礼拝を捧げさせてください。お祈りをしてください。」と言われたそうです。

そして、牧師先生はその方と一緒に祈り送り出したそうです。

そしてまた眠りにつきました。

するとまた誰かがドアを叩いたそうです。

そして「仕事に行かなければならないから、

礼拝を捧げてほしい」と同じことを言う…

朝6時…

そして11時には通常の礼拝を捧げました。

当時25歳だった牧師先生は、腹が立ったそうです。

「信仰生活を送るなら、

もっと正しい態度ですべきではないか。

自分の都合で礼拝を捧げるのではなく、

決められた時間に自分が主の御前に出るべきではないか?」

信徒さんたちの自分勝手な信仰生活を、

もっと教育しないといけない…と思ったそうです。

そこから長い歳月が流れ、今振り返ると、

当時の自分が本当に恥ずかしく思えるそうです。

「もし今の私が、当時のあの心境であの場所で牧会をするなら、

決してそんなふうには思わない…」と言われていました。

初めてイエスさまを信じた人たちが、

この忙しい農繁期に仕事に行かなければならない。

それにもかかわらず、

「仕事に行く前に、それでもまずは礼拝を捧げてから行かなければ」と

そう願ったその心。

今の自分なら、その心の尊さに感動すると言われました。

なぜなら、その心の中にこそ「神様の心」が見えるから。

当時の自分は、自分の考えや枠組みに

信徒たちが合わないことに腹を立てていた。

しかし、主の心が見えるようになると、

自分とは違う考えや行動、

以前なら受け入れられなかったものまで

受け入れられるようになる。

それだけではありません。

かつてはイライラしていた出来事さえ、

今では尊く、感動する出来事として

受け止められるようになったと言われました。

「教育しなければならない」と思っていた。

しかし、未熟だったのは信徒たちではなく、

25歳だった自分自身の信仰だった。

主を盾にして、

自分の考えや、自分の枠組みに合わない

人や考えを排除しようとしていたのだ、と。

私はこの証を聞いて、本当に考えさせられました。

自分にも、人間としての未熟さだけでなく、

「信仰の未熟さ」があるのではないか。

本来なら、主の目から見れば尊く、感動すべき出来事に対して、

私はイライラするだけでなく、

傷ついたりしているのかもしれない…。

その原因は、自分の考えや枠組みに合わないから。

自分が思い描いていた答えではないから。

そして恐ろしい事に、

多分そのような時の私は

「主」を盾にしてしまっている可能性があるという事…!

「主の前でそれは正しいのか。」

「聖書的にそれは間違っている。」

そんなふうに、自分の判断をあたかも

主の判断であるかのように

決めつけてしまってはいないだろうか。

この証は、ずっと心に刻んでおきたいと思いました。

自分の信仰は、まだまだ未熟であること。

今、自分が感じていることが、

必ずしも主の思いとは一致しているとは限らないこと。

だからこそ、自分の思いではなく、

主の心を求め続けなければならない…。

そして、自分の目ではなく、

主の目でこの世を見、

隣人を見ることのできる

主のしもべになりたい…‼

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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