イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
ルカ9:23
今日は、この御言葉が心に留まりました。
イエスさまが、ご自分の死と復活について語られた時に話された言葉です。
マタイとマルコにもこの「キリストの死と復活について」と同じ記録があります。
(マタイ16:21-28、マルコ8:31-9:1)
この聖句で、主は問われています。
「私について来るかどうか」
‟主について行く”とは、どういう事でしょうか。
「献身」という意味もあると思いますが、大きくは ‟主と共に人生を生きて行くか” どうかを問われているのです。
イエスさまを知って、十字架の意味を知って、
知るだけで終わるのか、
それとも、これからの人生を私と共に歩むのか?と問われているのです。
どうすれば主と共に人生を歩めるのか…
「自分を捨て、日々自分の十字架を負う」必要があると書いています。
自分を捨て、自分の十字架を負う。
自分の欲や楽しみを捨て、辛く苦しい道を歩もう!と言われているのではないです。
私たちは、イエスさまが十字架に架かり、私たちの罪を許してもらう事が出来ました。
イエスさまが十字架で命を捨てて私たちを救って下さったのに習って、
私たちも古い自分を十字架に付けて、古い自分に死ぬ必要があると言う意味です。
イエスさまを知る前は、神さまと離れ、私たちは何が正しいかどうか分からないまま、罪の支配下にいました。
しかし、主に出会い、私たちは何が正しく歩むべき道を聖書から知ることが出来ます。
新しい命によって生きて行くことが出来るのです。
自分が大切にしているもの、お金や時間、心、考え、感情など…
それらはどちらに向かっているだろうか。
何に費やしているだろうか。
誰に仕えているだろうか。
日々向き合う必要があるのです。
今日のこのルカの聖書を読んで、
神さまは本当に私たちの事をよくご存知だと思いました。
「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
「日々」自分の十字架を背負いなさいと言われています。
私たちは、
「よし! 私はこれからキリスト者として主と共に人生を歩む!」と決心します。
しかし聖書には「日々」と書かれています。
主は、私たちの弱さをご存知なのです。
私たちは、色々な出来事に心を直ぐに奪われてしまう存在です。
人に何か言われ、直ぐに心を痛めてしまう存在です。
直ぐに生きる事に疲れを覚えてしまう存在です。
目標をもっても、直ぐに心が変わってしまい、疲れ切ってしまう弱い存在なのです。
すぐに感情が圧迫される弱い存在だと、
主はご存知なのです。
だから、
「日々、自分の十字架を背負う」という選択をしなさい。
と書かれているのです。
今日は、この「日々」とわざわざ書いている部分に目が留まりました。
主は、本当に私たちの弱さをご存知で、その弱さに寄り添った導きをして下さる方なんだ…
と恵みを感じた一日でした。
今日も、主を選びましょう!
今日も、主と共に歩む!という事を選択しましょう!
「主よ。あの土地を私たち(LOVE BIBLE)に与えて下さい!」