クリスチャンはどの様に生きて行くべきか【マタイ5:13-14】

2023年

 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

あなたがたは、世の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

マタイ5:13-14

クリスチャンはどの様に生きて行くべきでしょうか。

「あなたがたは地の塩」「あなたがたは世の光」という聖書の御言葉を良く聞くと思います。

何となく、「あなたがたは立派な存在となりなさい」と言われている様に感じませんか?

人間が生きて行くのに必要な塩。

食べ物に味を付けるもの。

世を照らす光。

闇に勝つ光。

主は、私たちに、

「この世のなくてはならない存在になりなさい」

「多くの人の中で良いアクセントとなりなさい」

「迷える羊を導く指針となる存在になりなさい」

「信仰を持って悪ちに打勝つ存在となりなさい」

と言われているのでしょうか。

私はついさっきまで、何となくその様に思っていました。

キリストにあって存在感ある者になる。

キリスト者として指針となる。

でも、今日、この御言葉を目にした時に少し違って感じました。

私たちの食べ物に、味を引き立てる塩。

人間が生きて行く為に必要な塩。

この塩と言う存在は、食べ物に、人間の身体に ‟溶け込まないといけない” のです。

自分の塩としての原型をなくして、姿・形がなくなって初めて ‟塩の役目” を果たすのです。

本来の塩の役目を果たす事が出来ると、自分という存在は形がなくなるのです。

私たちに「世の塩」になりなさい。とは、

他の人とは違う何か特別な存在になるのではなく、

主と人々の間に溶け込み、仕えるという事。

自分の存在、主張、考え方などは、全くなくなるのです。

言葉を変えると、100%、私を通して主に働いてもらうのです。

そこには私が、こんなすごい事をした!!という思いが存在しません。

「世の光」とは、

皆が見上げる灯になりなさい。指針となる灯。進む方向性を示す灯。

ではないように思いました。

人々が光(私)を見上げる存在になるのではなく、

光(私)が物を照らす存在となりなさい。

自分を照らすのではなく、他者を照らす者となる。

スポットライトを浴びるのではなく、他者に当てる役割です。

裏方になりなさい。と言われている様に思いました。

イエスさまは、この言葉を誰に語られたのでしょうか。

イエスさまの話を聞こうと集まって来た群衆や弟子たちに話されたのです。

上流階級の人々を集めて話されたのではないのです。

イエスさまの話を聞こうと集まって来る人の中には、弱い者、病の者が多くいました。

イエスさまは、弱い者に「世の塩」「世の光」となれると言われたのです。

人間の弱さの中に働かれる主。

弱いからこそ、良い働きが出来る。

弱いからこそ、この大事な働きをに担って欲しい…と言われたのではないでしょうか。

主に喜ばれる働きをするため、自分の主張、考え、存在までなくし、溶け込み歩んで行く人生!

他の人を照らす裏方の人生。

人々はスポットライトを浴びている人に注目しますが、

主はスポットライトを当てている裏方に目を留められる方です…

主により、もっと整えられ、喜ばれる姿に成長したい…と思った御言葉でした!

今日も、御言葉により整えられ、一歩成長する日となりますように…!

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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