主はどこに居られるのか…【マタイ25:34-40】

2023年

そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたづねしましたか。』

すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

マタイ25:34-40

今日の聖書の箇所を改めて読んで驚きました。

私たちは、「神さま」という存在を考えた時、どの様な方だと想像しやすいでしょうか?

困った時に助けてくれ、私たちを導いてくれる方、願いを聞いて下さる方、力強い方、癒す事が出来る方…

神とはこういうお方だろうという神像が色々あると思います。

私はキリスト教の神は、一般的に私たちが考える神像とは違うなと思っていました。

神の子どもが、神の権威を捨て人間として生まれたり、

神の子どもなのに、立派な場所で生まれるのではなく、馬小屋で生まれたり、

神の子どもなのに、一番苦しく惨めな十字架刑で死にました。

そして、私たち罪人が自分の罪の為に裁かれ死ぬのではなく、

神の子が代わりに死んだのです。

神の為に人間が死ぬのではなく、人間の為に神の子が死んだのです。

一般的に想像する神像とは真逆です。

そして、今日の御言葉の部分でも「真逆の神さま」を見つけました。

私たちが空腹な時に食物を与えてくれたのが神さまではなく、

神さまが飢えた人でした。

喉が渇いた時に、水を与えてくれたのが神さまではなく、

神さまが喉が渇いた人だったのです。

旅人であった私に宿を貸してくれたのが、神さまだったのではなく、

神さまが宿が無かったのです。

また、着るものがない私に着物を与えてくれたのが神さまではなく、

神さまが着るものがなかったのです。

私が病気であった時、神さまが見舞いに来てくれたのではなく、

神さまが病気だったのです。

私が牢獄に囚われた時、私の元を訪ねてくれたのが神さまではなく、

神さまが牢獄に囚われていたのです。

これは、どういう事でしょうか…

神さまとしての強さとはかけ離れており、弱く感じます。

私たちの弱さに神さまが存在するという意味だと思います。

主は豊かさの中に存在するのではなく、

貧しく弱い者の中に共に存在するのです。

マザーテレサのように、弱い者、困難な者、病の者に寄り添う時、

私たちは、弱い者の中に主の姿を見る事が出来るのです。

多くの人は、弱い人を助けてあげる姿、マザーテレサをみて「神のようだ…」と、神の姿を重ねてしまいます。

しかし、マザーテレサは、助けている自分が神ではなく、弱い人の姿を通して神の姿をみたのです。

自分は不自由がない豊かさの中に身を置き、安心し満足していては、主の姿を感じられないのだと思います。

貧しさの中にいる主。

貧しいものと共に居られる主。

私は、まだ主に出会っていないかもしれない…

そう語っておられる御言葉だと思いました。

自分の安全、安心を求めすぎず、弱い人、困難な人、病で苦しむ人に目と心を向けるべき…

今日の聖書の箇所は、もっと黙想が必要だとも思います。

私たちの神さまと言う概念とは、真逆であるキリスト。

私はまだまだ、貧しさの中にいるキリストに出会えていません。

自分に出来る事、主が私に望まれている事を黙想したいと思います。

今日も、主と共に歩み、知らなかった主の姿を発見できますように!!

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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