神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
詩篇51:17
聖書って読みたいと思っても、なかなか読めない、すすまない事が多いです。
しかし、聖書を読むべき理由があります。
私が思う理由の一つとして、主の考えや価値観、基準などが私たちと大きく違うからです。
「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい(ルカ6:27)」を見ても、
「敵を愛する」という考え方・・
私たちにとって、「敵」は憎むべき存在であり、勝利するべき相手、許せない対象ではないでしょうか。
しかし、主は「敵を愛せよ。憎む者に善を行え」と言うのです。
主は、私たちが持つ発想とは正反対な事が多いのです。
これは、私たちが主から大きく離れてしまっているからです。
ですので、聖書を読み、主の考えや価値観、思いなどを学ぶべきなのです。
自分の「良心」や「善意なる考え」「良識的な判断」などが正しいとは言えないからです。
聖書を読み、主を学び、主のパターンの様なものがあるの事に気付きます。
モーセの話を読んで、主のパターンがある事に気付きました。
エジプトの地から神の民であるイスラエル人を救出したリーダー。
主は、モーセに「あなたをパロのもとに遣わそう(出3:10)」と語られました。
しかしモーセは何度も断るのです。
自分は口下手だから、他の人を遣わせて下さいと・・
モーセは本当に口下手なのでしょうか。
「はい!私が行きます!私を遣わして下さい!」と答えれるタイプの人ではないのでしょうか。
モーセは・・
エジプトのファラオ王が、ヘブライ人の男の子を殺すように命じた時にモーセは生まれ、
3ヶ月の間、父母の家で育てられましたが、隠しきれなくなりナイル川に置かれたモーセをパロの娘が拾い上げ自分の子として育てたのです。
モーセは殺される運命の下に生まれましたが、主によって生かされ、
エジプトの最高の教育を受け、豊かに成長したのです。
そして使徒7:22を読むと
「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、言葉にもわざにも力がありました」とあります。
モーセは、言葉にもわざにも力があった人物なのです。
エジプトにいる時、パロの娘のもとにいる時のモーセは、自信家だったのです。
恐れるものがなかったのです。
しかし40歳の時に、同胞のイスラエル人がエジプト人に打たれるのを見て、モーセはそのエジプト人を殺してしまいました。
翌日、同胞同士で争うのを目にしたモーセは、仲介に入りました。
しかし、民は「昨日エジプト人を殺したように、私も殺す気か」とモーセに言ったのです。
モーセは、誰にもバレていないと思っていた殺人がバレており、同胞を思っての行動を感謝されるどころか、イスラエル人はモーセを受け入れなかったのです。
モーセは殺人をしたという事が怖くなり、エジプトでの生活を捨てミデアンの地に逃げたのです。
エジプトでは最高の水準の生活を40年過ごし、一回の殺人を通して、モーセはミデアンの地で40年、身を隠して生活したのです。
ミデアンの地とは「荒野」です。
最高の環境で育ったモーセは、一番さげすまされている「羊飼い」という職業を余儀なくされたのです。
40年もです。
モーセは40年間、何を考え生きたのでしょうか。
モーセに希望はあったでしょうか。
いつかエジプトに戻り地位を復活させようと希望を持ていたでしょうか。
多分・・「自分の人生はこれで終わるんだ・・」と落胆して生きていたのではないでしょうか。
モーセにとっては、人生は転落し、今まで持っていた「王家の一家」という地位、学識、経済力などを無くし、
「自分は何でもできるという自信」は、100からゼロを抜け、マイナスになったのではないでしょうか。
人の目には、モーセは人生に失敗したのです。後悔しかなかったかもしれません。
しかし、主はこのモーセの失敗を通してモーセを主が望む姿に変えられたのです。
モーセの何でもできるという高慢な思いを、粉々に砕かれたのです。
ですので、主がモーセを「あなたを遣わそう」と語られた時、
モーセは「私はいったい何者なのでしょう(出3:11)」という返答をしています。
モーセは、自分には何もない・・何も残っていないと思っていたのです。
イスラエルの民をエジプトから奴隷解放させ、約束のカナンの地まで率いていくには、
かなりのリーダーシップが必要だと思いませんか?
頭がキレ、かなりの指導力や判断力が必要であり、
私の考えでは、ミデアンのモーセではなく、エジプトのモーセを用いたいと思ってしまいます。
しかし、主は、
言葉に力があったモーセではなく、口下手な力のないモーセに変えられてから、モーセを用いられたのです。
主は、自分には出来ない。自分に力がない。自分では役不足だ。心底その様に思っている人を用いられるのです。
40年かけて、主はモーセを主が用いられる姿に整え、40歳の若いモーセではなく、80歳のモーセを選ばれたのです。
私の判断では、ミデアンのモーセを40年かけて強くし、エジプトのモーセの姿に整えそうです。
私たちは、当たり前のように適任者として強い者、若い者を選びます。
主は、力や年齢ではなく「砕かれた弱い者」を選ばれるのです。
私たちの考えや常識、判断力、価値観とは違うのです・・・
主の目と私たちの目は違うのです・・
私たちは、主を知っていく必要があります。
主の価値観、主が喜ばれるもの、主が望むもの、主が好まれるもの・・・
自分の思いではなく、主の思いを知る必要があります。
だから、正しい判断が出来るように、主を知って行く為に聖書を読むことが必要なのです。
今日も、聖書を読み(スマホで移動中にでも読めます。聴く事も出来ます)主を知っていく1日となりますように。
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」