さて、イエスは朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
シモンとその仲間は、イエスを追って来て、
彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております」と言った。
イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」
こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。
マルコ1:35-39
私は今年は「祈る」という事を一日の生活の中で習慣化しようとしています。
その中で、思う通りにいかない時があります。
気が付くと、、、、途中で集中力が切れ、脳裏に違う事を思い浮かべたり、眠くなったり。また祈り終わってから、「あ・・あの人に対しての祈りを忘れてた・・」とか。
祈りの途中に子どもは「今日のご飯なにー?」声を掛けられ「あ!ごめん。祈りの途中だった?」と💦
韓国には祈祷院が沢山あります。日常から離れ、礼拝、賛美、祈る時間を持つ為の場所です。少し都会から離れた所にあります。
多くの祈祷院は教会から定期的にバスが出ています。その祈祷院の中に、「祈祷窟」があり、祈る為に1人が入れる部屋です。そこで1人で大きな声で祈れる場所です。
病を患った人、大きな決断をしないといけない人、神さまとの関係を回復したい人・・色々な人が祈りの課題を持って集まってきます。泊ったり食事をすることもできます。
断食祈祷する人も多いです。
またある程度大きい教会だと、教会の中に「祈祷室」があり24時間利用できます。夜通し祈る方が必ず居られます。
なかなか祈りに集中出来ない日が続くと、この祈祷院、祈祷窟を思い出し「行きたいな~」と思います。
今日のこの聖書の箇所を読んで、祈りについてとても大切なことを教えられました。
イエスさまは、朝早くに、弟子たちがまだ眠っている間に、1人で起きられ、人里離れた寂しい所に行き、祈りの時間を持たれたのです。
祈りの途中に弟子が来て「みんながあなたを捜しております」というのです。この弟子の言葉が心に残りました・・
弟子たちはイエスさまを探したのです。
34節を読むと、前日「さまざまの病気にかかっている多くの人をいやし、また多くの悪霊を追い出された」とあります。
この日も朝から、沢山の人が癒しを求めて集まったのではないでしょうか。イエスさまを見つけた時の弟子たちの言葉・・・
「みんながあなたを捜しております」という言葉の意味は、
「凄く忙しいのに、こんな所に居られたんのですか?」「どれ程探したことか・・!」「皆あなたを待っています!」
もしも、弟子たちがイエスさまの「お祈りの時間を重要視」していれば、声は掛けれないはずです。
弟子たちのイエスさまを見つけた時に出た言葉は、文句であり批判的な思いだと思います。
私の中にも、弟子たちのような思いを持っているのです。
私たちは日々、忙しく、精一杯です・・
1人で静かに祈る・・・これよりも、明日の予定がスムーズにこなせるように、夜中の洗濯、朝ごはんの下ごしらえを優先してしまいます。
だって、明日も生きて行かないといけないから・・ まず、するべき事から片づけたいから。
私たちも、「祈り」に対して、この弟子たちの態度や姿勢を持っていると思います。
何か心が重くなり、全てが上手く回らなくなっても、聖書に手を伸がすのではなく、自己啓発本にヒントを求めたり・・・新刊の小説だったり。
家族の為に時間も十分に持てない生活・・1人で祈る時間・・?
少しでもゆっくり寝たい・・というような思いも・・
自分の中に、「祈りたいけれど、、これしないとな~ あれも片付けないとな・・」という思い。
周りの雑音(祈りの途中に声を掛けられる)
祈祷院の様な所に行けない自分
これらを理由に、祈りを優先していないのです。私も弟子たちと同じような心を持っているのです。
宗教改革者マルティン・ルターは、
「今日はすべきことがあまりにも多いから、一時間ほど余分に祈りの時間を取らなければならない。」と言いました。
汝矣島純福音教会という世界で一番大きい教会の牧師先生、趙鏞基(チョー・ヨンギ)先生も「忙しい時ほど、普段より沢山の時間を取って一日を始めている」と言われていました。
忙しい時ほど祈る・・・って簡単なことではないです。
でもこれって、本当に「主に委ねる」という行為だな・・と思いました。
人間的に見て、するべき事から取り掛からないのですから。
今年は、やって見ようと思います!
私はこの時間を持てば、信仰が大きく変化するのを知っています。
これは訓練でもあると思います。
「主の前に留まる」訓練です。
祈りを重ねる事により、主との関係が深くなります。それを実感するまで、、続ける必要があるからです。
今年は期待して、祈りの時間を楽しみます!
主を優先して。
今日も、主と共に歩む一日をお過ごしください!
主の前に留まるという訓練