全く祈りが答えられない【Ⅰヨハネ5:14】

2023年

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

Ⅰヨハネ5:14

神さまに切に祈ったことはありますか?

私は何度もあります。

時には泣きながら、切実な願いを何度もしたことがあります。

しかし、いくら切に願い求めても、祈りがきかれないことがあります。

長く祈っているのに、全く祈りに答えられない。

これはどう考えても、主が介入してくれないといけないのに。

誰が考えても、今、主が助けてくれないと言うのはおかしい…

主が居られるなら、

主が神であるなら…

今、助けてくれないで、一体どうするつもりだろう。

このように感じた事はないですか?

答えられるどころか、良くない方向に状態が進むこともあります。

一体、主は何をお考えなのでしょうか。

何度もこのように感じては、主に絶望したことも何度もあります。

「こんなに祈っているのに、どうしてきいてくれないんだろう」

「私が願うことは自分の利益を求めてる訳でもないのに、どうして助けてくれないんだろう」

「今まで、死ぬ気で頑張ったのに…」

「寝る間も惜しんで取り組んできたのに」

「これだけが自分の人生で唯一の願いだから…」

「どの様な時も、真面目に誠実に生きて来たのに…」

…祈れば祈るほど、不信感が募ったりします。

失望は、信仰を揺らします。

…なんどもこのような葛藤を感じながら、気付いた事は、

祈る時、特に願いを祈る時、

「主よ。導いて下さい」と祈りながら、

私の頭の中には、「導きの方法や、順序や結果」など、心のどこかで思い描いているのです。

無意識のうちに「こうなるべき…」「こうならないとおかしい」「これしかない…」と。

道のりから結果まで、何となく自分の中にこれからの展開のストーリーを持っているのです。

主に委ねると祈りながらも、

「 こんな風に聞いて欲しい」という願いがあるのです。

そして、その通りに展開されず、違う事が起こると「どうして祈りを聞いてくれないんだろう」と失望するのです。

自分では、謙遜な思いで「主よ。導いて下さい」「主に委ねます」と祈りながら、

こうなって欲しい… こうなれば最高。せめてこれだけはきかれて欲しい…

祈りに対して失望を感じるのは、

自分が思い描いているストーリー通りに展開されないから、祈りがきかれていない!と感じるのです。

つまり、自分の思い通りの展開ではないから…

自分の願い通り以外は、「導き」だとは思えず、「私の祈りはきかれていない」「神はいない…」と感じてしまうのです。

「 神さま、◯◯学校に合格したいです。合格できますように」

「 ◯◯に就職したいです」

「 将来、こんな仕事がしたいです。導いて下さい」

「 成功しますように」

「 癒やされますように」

「 ◯◯が欲しいです。与えて下さい」

「 ◯◯さんが苦手です。上手く付き合えますように」

「 ◯◯に行けますように」

私もですが、

このような祈りをしてしまいます。( それがダメだと言う意味ではないです)

ゴールを決めて祈っているのです。

このように祈った場合、

◯◯学校に合格すれば、祈りはきかれ、

不合格になれば、祈りは聞いてもらら得なかった..と受け取ってしまうのです。

「〇〇に合格しますように」という祈りが間違えている訳ではないです。

願いを祈っているのですから。

しかし、もっと良い祈りは、

主が自由に働かれるのを望む祈りかもしれません。

主の御心のまま、どのようにされるのか…

主の方法に期待する。

主の導きに期待する。

主が自由に働かれる事に期待する。

祈っても主が答えてくれない! ではなく、

今ある状態が、主の答えかもしれません。

その状態で留まる事が。

自分の目には良くない方向に進む事が。

思いもしない展開になる事が。

それが、主の導きかもしれません。

主がどのように働かれるのか、期待し待ち望める信仰を持ちたいです。

私たちの想像を超えた事をされる主に、

心を空にして祈りましょう!

今日も、主の導きに寄り添う事が私たちの喜びとなりますように!

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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