信仰が上がったり下がったりしませんか?【出エジプト6:11-13】

2022年

「エジプトの王パロのところへ行って、彼がイスラエル人をその国から去らせるように告げよ。」

しかしモーセは主の前に訴えて言った。「ご覧ください。イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口べたなのです。」

そこで主はモーセとアロンに語り、イスラエル人をエジプトから連れ出すため、イスラエル人とエジプトの王パロについて彼らに命令された。

出エジプト6:11-13

主はモーセに、エジプトで奴隷になっているイスラエルの民を、連れ出すように命令されました。

モーセは、「イスラエル人でさえ、私の言うことを聞きません。エジプトの王パロは、尚更でしょう。私は口下手です」と答えました。

モーセは以前にも、主に対して同じ言い訳をしています。主はそれに対して「私が共に居る・・」言われましたが、モーセは素直に聞き従いませんでした。

主は怒って「モーセの兄アロン」を共に行くことを赦しました。(4:14)

これって少し面白いですよね。

アロンが、口が立つのであれば、始めからモーセではなくアロンを選んだらいいのに・・

口が立つアロンがいるなら・・・ だったら、アロン一人で行っても良かったのでは? パウロとアロンを2人で行かせる理由はなんだろう・・って思います。

どうして初めから、主はアロンを選択しなかったのか? モーセの口下手を理由に、アロンと2人で行かせたのか。その理由は分からないですが、

アロン一人ではダメで、モーセ一人でもダメだったのだと思います。

それぞれの賜物が必要だったんだろうな・・と思います。

モーセはイスラエル人に話しても、民は話を聞こうともしないと判断したのは、どうしてでしょうか?

落胆と激しい労役が原因です。これは私たちも本当に注意すべき点です。

忙しすぎると、未来について、少し先についてさえ、何も考えられないのです。目の前にあることだけで、精一杯なのです。

私たちも、主の御声を聞けなくするものは、この2つです。

「落胆」している心は、主の希望の声を受け入れません。跳ね返すのです。

そして、安息を取らずにひたすら目の前にある仕事に集中し、自分の意志で生活していれば、主がそこに介在する余地がなくなります。

また、このモーセの「どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口下手です。」という答え。

実は、今回が初めてではありません。

モーセがシナイ山のふもとで、主から使命を受けました。燃える柴を見た時です。この時と同じです。(3章4章)

パウロは燃える柴を見て、主から使命を貰って以降、信仰が成長した様子でした。

しかし、また成長する前のモーセに戻っているのです。

これも、私たちとよく似ています。

私たちも、主にスッゴク満たされて、信仰がステップアップしたかのように感じる事があります。しかし、また何か生じたら、逆戻りしてしまったような事はないですか?

「あれ?何か信仰が強くなったと思っていたのに、最近またダメな感じ・・?」

こう感じるのは、原因が決まっています。

今目の前にある自分の状況に、目も心も奪われているのです。

せっかく主を見上げる事が出来ていたのに、私たちって弱いものです。自分の考えでまた物事を見てしまい、判断し、無力感に襲われてしまうのです。

信仰が上がってたのに、下がってる? と感じる時は、心が主から離れてかけているからです。

モーセは、旧約聖書に出てくる偉大なリーダーです。

そのモーセでさえ、信仰は上がったり下がったりだったのです。

モーセは、主からイスラエル人救出を任命されましたが、正直に「私は口下手です」と答えています。
モーセはしつこく主に自分の心配事を投げかけます。「・・だったら?」と。主はその度に、モーセの不安に対して答えられています。(3章4章)
そんなモーセに主は、口が立つアロンを送ったのです。
私たちは、人それぞれ弱さもあり、欠点もあります。
モーセの弱さ・・・口下手ってリーダーとしては、難しすぎる弱さですよね(笑)
しかしモーセは、主に大いに用いられる人物となりました!!
私たちも、信仰が上がったり下がったりしても、下がった時は自分が今、主を見れていないのだと認識し、再出発すればいいのです。
今日も、主を見上げる一日としましょう!!
良き一日となりますように・・・
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