主の愛を感じていますか?【ルカ15:24】

2022年

この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから

ルカ15:24

クリスチャンなら何度も聞いた事がある、「放蕩息子」の話です。

放蕩息子の話・・・という位ですから、主人公は息子(弟)です。

今日は、父親を主人公として、分かち合いたいです。

私が初めてこの話を読んだ時、一つ疑問がありました。

父親はこの息子(弟)を愛していた・・・ならどうして探しに行かなかったのだろう? 自分が探しに行けなかったとしても、使いをやる事は出来ただろうに。父は、家の窓から遠くを眺めて待っていたんだろうな。どうして家から出ずに待っていたのだろう・・

 

弟は父親に、ためいもなく「財産を分けて欲しい」と生前贈与を求めれる息子。

父親は、この子を縛り付け、家においても、この子が正しい思いで生きて行けないと分かっていたはずです。

多くの親は、こんなこと息子に言われたら、財産を分けないですよね。それどころか、もっと息子から自由を奪い規制をするかもしれません。

この個所の、放蕩息子の父親は、主に例えられています。

この父は、何故、弟を叱ったり、弟の要求を拒まなかったのでしょうか?

この父は、あまりにも寛大過ぎではないですか?

この父は、大人となった弟に、自分の人生を自分で選ぶ自由を与えたのです。

弟の自由意志を尊重し、弟の選択に任せたのです。弟を強制的に行かせないように縛るのではなく、弟の意志で決める事を望まれました。

本当に大切な息子、愛している息子だからこそ、無理に止めなかったのです。

父は弟を信じたのです。人の目にはどうしようもない弟であっても、いつか目覚めてくれる時が来る。弟が「自分の意志で、正しいものを選択するまで待つ」という選択を父親もしたのです。

大きな愛の持ち主でなければ、この父のような選択は出来ないと思います。

もしも、私が自分の子どもにこの様な事を言われたら、失望しか感じないと思います。

 

遠い国に旅立った弟は、放蕩して湯水のように財産を使い、何もかも失い困っている時、弟は食べるものにも困りました。落ちぶれた弟から人は去り、孤独になり、何とか「豚の世話」という仕事を手に入れました。あまりにも空腹で、「豚の食べるいなご豆で腹を満たしたい」と思うほどでした。

弟は、墜ちるところまで墜ち、やっと目が覚め、自分の過ちに気付きました。

聖書には「我にかえった」と書いています。

弟は、何もかも失い、助けてくれる真の友が居ない事に気が付き、また、父の家にいることが、実は本当に幸いなことだったと気付いたのです。

そして、父の家に帰る決心をしました。道中不安もあったと思います。

「ところが、まだ家までは遠かったのに、父は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした(15:20)」のです。

父は、決して弟を見捨てたり、見放したり、忘れてしまうことはありませんでした。

父は、弟を信じて待ったのです。

自分の意志で父の懐に帰って来ることを。

父は、弟が悔い改め、帰って来た時、どうしましたか?

一番良い着物、指輪、靴を与えました。

「着物」とは、恥を覆う物であり、義とするという意味です。

「指輪」は、子どもの身分の回復を意味しています。(その人の地位を証明するもの)

「くつ」は、もう奴隷ではないと、宣言を意味しています。

父は、どうしようもなかった弟を、無条件で受け入れたのです。

 

この父には、兄と弟の2人の息子が居ました。兄はまじめで、弟は手がかかる息子です。

弟が財産を求めた時、父は弟だけでなく、兄にも財産を与えています。(15:12)

弟だけでなく真面目な兄にも、自由意志を尊重しているのです。父のもとに留まる自由と、外に出る自由です。

真面目な兄は父のもとに残り、真面目に働きます。兄は、弟が帰って来た時、父が弟の為に、祝宴をしている事に気が付きました。

兄は怒って家に入らなかったのです。

父は、そんな兄をほっておかれませんでした。弟ばかりに目も心も奪われていたのではないのです。

兄のいる外に出て、「色々となだめた(15:28)」と書いてあります。

父にとっては、真面目な兄も大切で愛している息子なのです。兄の嫉妬する気持ちを十分に理解して下さる父なのです。

 

私が、初めてこの個所を読んだ時の疑問、父はどうして探しに行かなかったのか・・・

父の愛は、「信じて、待つ」と言う愛を持っておられたからです。

信じてただ待つと言うのは、本当に難しい選択だと思います。

私たちは、しっかりと父の懐に帰っているでしょうか? 同じ家には住んでいるけど、あまり顔を合わせたくない・・・というような状態ではないでしょうか?

父の懐に帰るとは、健全な親子関係に戻る事を意味します。

同じ家に住んではいるけれど、主と自分がシェアハウスのような生活では、懐に帰ったとは言えないのです。

私はしっかり、主の懐に帰れているのかを考える一日としたいです。

祝福された一日をお過ごしください!

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