「心配」が尽きない私たち【マタイ6:25a】

2022年

わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。

マタイ6:25a

福音館書店出版の「おつかい」という絵本を知っていますか?

凄く面白い絵本です。小さい子に読んであげてももちろん面白いですし、大人が読んでも、ちょっと考えさせられる内容です。(動画がありましたので、最後に貼っておきます)

雨の日なのに、女の子がお母さんから、「お使いに行って来て」と頼まれます。

初め、女の子は「でも雨が降っているよ」と言って心配しますが、母親は「傘をさして行けばいいで しょ」と傘を差しだします。

「でも、足が濡れちゃう」と言うと「じゃあ長靴をはいて」。「でも、服が濡れちゃう」→「じゃあレイン コートを着て」。女の子は、次から次へと心配が出て来るのです。

「でも、風で髪の毛がクシャクシャになっちゃう」→「じゃあ帽子をかぶっ て」。「でも、もしも大水になったら…」→ママは、ゴムボートを渡します。「でも、ボートがひっ くり返ったら…」→ 浮輪。「でも、目に水が入っちゃう」→水中眼鏡。「でも、泳いだらおなかがすいちゃう…」→ 大量の食べ物・・・

ついに、女の子は「じゃ、行こうか」と言って、沢山の食料が入ったリュックを背負い、帽子をかぶり、水中眼鏡をし、浮き輪を付け、長靴と傘、そしてボートを持って外に出ます。

すると、外はもうすっかり雨があがって、太陽が輝いていました。 というストーリーです。

この絵本は、ページを進める度に、クスっと笑えるのですが・・・私たちも同じですよね。

私たちも、この絵本に出てくる女の子と、同じレベルかもしれません・・・

あれやこれやと、起こってもいないことを、次々と心配しています。

主は聖書を通して、「心配しなくていい」と言われていますが。

私たちは、休むことなく何かにつけて心配し、思い煩ってしまっています。

この聖書の箇所では、「衣食住」の心配についての教えておられますが、この「心配するな」という原則は、今の私たちの抱える、あらゆる種類の心配にも当てはめることができます。

「そうは言っても・・・」と言うのが、正直な心情ではないですか?(笑)

私もそうです💦

イエスさまは、何故「心配するな。思い煩うな」と言われるのでしょうか?

これは口先だけの、慰めや希望を与える言葉とは違うと思います。

私たちが、悩んだところで、解決できないからです。主の範疇にある問題だからです。

悩んだところで、目先の問題を解決出来たと思っているだけであって、本当は解決できる問題ではないからです。

だから、悩むのを辞め、ギュッと握りしめた心配を、私に渡しなさい。と言われているのです。

 

例えば、幼稚園児の我が子が、「今月の家賃、支払いできるだろうか」「地震が来た時、どうすればいいんだろうか」「パパはリストラされず、今の生活を保てるだろうか」「パパは今日、仕事で何件の契約を取れるだろうか」「ママが突然、病気になったらどうしよう」「私はちゃんと就職できるだろうか」「私はどんな人と結婚するんだろう」

そんなこと、考えなくていい問題ですよね。考えたところで、どうすることも出来ない。たくさん沢山、心配してても何にもならないし、パパとママも「そんなこと、あなたが心配しなくても、大丈夫よ!」と言うと思います。

私たちはこのような状態だと思います。

私たちも、今、自分の力で生きている訳ではないです。自分の力で心臓を動かしたり止めたりできる訳ではないのです。

主が力を与え、知恵を与え、食べる物、着る物、住む所を備えて下さって、与えられ場所で生かされているのです。

生まれる日も、死ぬ日も、自分で計画出来ないのです。子どもは親を選べないし、親も子どもを選べないのです。全てが主が与えられたものなのです。

わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。(イザヤ45:7)

私たちは、主が造られた世界に住み、私たちも主の被造物の1つです。主が造られたものに何一つ無駄になるようなものはありません。全てを備えて下さったのです。

「災い」も主が創造されたのです! どうして??と思もいますが、私たちに必要だからでしょう!

多くの人が、心の傷や、挫折、葛藤、喪失感・・・などを抱え、教会に導かれ、癒しと希望を与えられ、主を信じることが出来るようになったのです。災いも、今の自分にとって必要なものなのです。

私たちは、自分が主の被造物であり、主が全てを造られたと信じていながら、それに比べてもっと小さい問題に心を奪われているのです。大きなものを信じているのに、小さい事は信じられず、自分で何とかしようと思い煩いを止めないのです。

主は「わたしはアルファであり、オメガである(黙1:8)」と言われています。

主は、私の全てをご存じで、私の全てに計画を持たれているのです。ドンっとお任せして大丈夫なのです! 幼稚園児が「でも・・・」「でもさ・・」「もしも・・」と続けて心配したらどうでしょう?

親は「心配しなくて大丈夫!パパとママが絶対にあなたを守ってあげるから!!」って思いますよね。

多分、主の心情も同じではないでしょうか? 聖書の色々な箇所に「心配しないでいい」と書かれています。

しかし聖書は、私たちに心配する代わりに、他の事をしなさいと言われています。

何か分かりますか?

神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(33節)

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(7:7)

心配はあなたがするのではなく、私に任せて、あなたは私に、求めなさい!と言われています。

主が言われているのですから、その通りしてみましょう!

それが、主が望まれている事なのですから・・・

今日は、自分が何か心配事をギュッと握りしめていないか、もう一度自分の心を探ってみます。

主の中で、心配から解放される日となりますように!

 

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