「祝福」と「困難」の差【詩篇62:8】

2022年

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ

詩篇62:8

予想外の問題が生じた時、私たちの気持ちはどうですか?

ザワザワしませんか?

何か物事が上手く行かない時、私たちは、何か主からの警告されてるような、咎められているように感じを受けたりするものです。

聖書の中で弟子たちが、生まれつきの盲人を見て、イエスさまに「だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(ヨハネ9:2)と聞いた事があります。

私たちは、良くない事があると、「私が罪を犯した?」「罰せられている?」と不安になるのです。

イエス様は、弟子たちの質問の答えとして「神のわざがこの人に現れるためです。」と答えられました。

これは現代も同じだと思います。

何か、思った以上に上手く事が運ばない、思ってもない問題が降りかかったら、自分に非がないのか考えてしまうのです。

困難はどうして起こるのでしょうか?

私は、良い事も悪い事も、同じだと思います。

全てを治めておられるのは主だからです。

私たちの目は、目先の事しか見えないし、ずっと先の事なんて想像できないのです。

私たちは、目先しか見れない目で判断してるのです。目先の願いが叶えば「祝福」だと喜びに満たされ、自分の思い通りにならないと「苦難・困難・問題」だと思い、心がザワザワするのです。

蟻が行列をつくって、歩いている姿を見たことはありますか? 目の前に石があると、全員がその石を迂回して、また目的に向かって道を進むのです。

蟻の目には、目の前の石が、とてつもなく、大きな岩のように見えているハズです。しかし私たちにとっては、なんてことのない小石なのです。

目の前に、風で枯れ葉が飛んでくると、天災が起きたかのように、大騒ぎになっているかもしれません。 死ぬかもしれないと、自分の命を危うんでいるかもしれません。

私たちは蟻と似ているような気がしませんか?

私たちは長くて100年程しか生きれない存在なのです。

小さなスパンでしか、世の中の出来事を見れないのです。

自分の思い通り良い事が与えられても、悪い事が起きても、それを主幹されてるのは主なのです。

自分にとって「悪い事」が与えられても、それが本当に悪い事かどうか、私たちには分からないのです。

結果的には、想像を超えた素晴らしい事を与えて下さる為の過程に、過ぎないかもしれません。

主は、私たちに良いものを与え、祝福したいと思われている方です。

ですから、一喜一憂する必要はなく、主にお任せしましょう!

全ての治めておられるのは、私たちの主なのですから!

今日も主を信じ、ドーンと構え、期待して過ごしたいと思います。

みなさまも、良き1日をお過ごしください!!

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