主を知っていく = 自由になれる【Ⅰテモテ1:13】

2022年

私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

Ⅰテモテ1:13

今日の御言葉は、パウロの言葉です。

パウロは、キリスト教会迫害の先駆者でした。

パウロが信じていない時、自分のしている事が、正しくなく神さまに敵対していると、知らなかった時にしたことなので、あわれみを受けたと言っています。

これを読むと、「知っている事」と「知らないでいる事」に差があるようです。

主を知らないで生きて行くって、凄く大変だと思います。

自分が、もし救われていなかったら・・・と考えると、考えるだけでしんどくなります。

変わる事がない基準を持たずに、生きて行くのですから・・・

イエスさまも、十字架で亡くなる前に、

「父よ。彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのか自分でわからないのです(ルカ23:34)」と言われました。

主を知らないで生きるとは、大きな的外れな生き方になってしまうのです。

なんとなく、世の中の流れ、世の中の常識によって、善と悪を判断してしまい、揺れ動くものを基準として、生きているからです。

また、主を知る人生(クリスチャン)と、主を知らない人生(ノンクリ)だけでなく、

同じクリスチャンであっても、「主を知ろうとしないクリスチャン」もいます。

時々、こんな声を聞きます。

「聖書って、沢山読むとしんどくならない? 何か自由が無くなるというか・・・」って。

簡単に言ったら「知ったら色々と規制を感じる」って言う事です・・(笑)

本当にそうでしょうか。

主を知っていく事により、自分の心の傷が癒され、主の計画を知る事ができ、何の為に生きているのか、主に愛されているという事を感じる事ができます。

主を知っていく = 自由になれる

だと思います。

 

もちろん、主に祈ってもどちらを選択したら良いのか答えが分からず、「待たされ感」を感じる事があります。

もしも、主を知らなかったら、自分の中で迷っている事柄を、自分の思いで天秤にかけて決めればいいのです。

しかし、クリスチャンは「主の御心」を求めよう・・・求めるものだという意識があるので。

「祈っても御心が分からない」という状態に、ヤキモキしてしまい。その思いが「主は本当にいるのか?」という発想にまで行ってしまうのです。

私も、待たされ感に疲れたり、主は本当に居るのか・・・? と発想が飛んだことは何度も何度もあります。

でもね・・・ いつも思う事は、、、

私は、時間が経ってみると、いつも思う事は同じです。

「私が主を待ってると思っていたけど、実は私が、主を待たせていたんだ!!」と思うことが「殆ど」です💦

どういう事かというと、一言で言うと「私の方に、答えを貰える準備が出来ていなかった」です。

主はもっと早く、私に答えをあげたかったのに、私が、本当に信頼して主に委ねることが出来ていなかったり、自分の欲が先走ってしまい、祈りが自分の欲を満たそうとしていたり。

多分、この様な状態で「主の答え」を貰っても、私は従えない。反発してしまう。主にお任せしますと祈りながらも、その手には自分の欲をしっかりと握っていたり。

また、自分の欲とは別に、全てのタイミングが整っていないという事もあります。

だから、導きを求める祈りをする時は、(早く答えが欲しいので)心を整えて祈るようにしています。

エイブラハム・リンカーンの言葉・・・

「聖書は、神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間にとって望ましいものはすべて含まれている。」

と言っています。

私も子どもに「人間に必要な事は、全て聖書に書いてある」と言っています。

ただ、聖書は教科書ではないので、「あなたの〇〇に対する答えはココ!」という風にはいかないかもしれません。

主の答えは、一人一人に違うからです。

主は、問題の答え「こちらを選びなさい!」という答えよりは、どうして自分がこれで迷っているのか、どうして私はそう考えるのか・・・という自分の根っこの部分を示される事が多いように思います。

だから、答えは自分が主から貰うのです。

聖書を読み、祈り、主と交わり・・・主を知る毎に、主の素晴らしさ、主の臨在、主の計画・・・

感じる事ができます!

私たちは、主をもっと知っていく事により、今よりもっともっと、私たちは自由になれるのです。

今日、主との良き交わりを持てますように。。。

そして、もっと自由に解放され生きて行けますように。

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