「もう祈るしかない」という思いの根底【Ⅰサムエル17:45-47】

2022年5月

45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエル人の戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。

46 きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。

47 この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」

Ⅰサムエル17:45-47

 

今、知人が問題に直面しています。 電話で私に「もう・・・祈るしかない」と言いました。

自分なりに沢山の解決方法を模索したようです。私も問題に対する今までの話を聞き、「そうだね。祈るしかない!一緒に祈るから!」と答えました。

電話を切ってから、「あれ?何か変・・・もう祈るしかないって何か変・・」と思いました。

どうして変に感じたのか、薄っすら分かった時、

私の頭に、ダビデとゴリアテの話が思い出され、もう一度読んでみました。

 

当時、ペリシテ人とイスラエル人は敵対関係でした。イスラエルの王、サウル王の息子ヨナタンがペリシテ人の守備隊を破ったことから戦いが大きくなりました。ペリシテ人で3メートル程ある巨人のゴリアテが、「一対一の一騎打ちで戦い、負けた方が勝った方の奴隷となろう」というのです。イスラエル側からは戦いに名乗る者がいませんでした。少年ダビデは父の言いつけで兄達の安否を尋ねに来ました。そして、ゴリアテが叫ぶのを聞き、ダビデが戦いに名乗りを上げたのです。

この個所を読む度に、サウル王はどの様な心情で、国の未来をダビデに委ねたのだろうと思います。イスラエルにも戦いの名士達が沢山居ただろうに、その者よりダビデに希望を感じたのだろうか。それとも名士でさえゴリアテの前では無力を感じ、誰にも託せない状況に追い込まれ、手を挙げたダビデに任すしかなかったのか・・・

47節のダビデの言った「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。」 何度読んでも、心がジ~ンとします。

ダビデがゴリアテと戦うと決まって、周りの大人は、ダビデの頭に青銅の兜、鎧を着せ、サウルの剣を持たせました。しかし、ダビデは日頃から使用している、杖と石、投石袋を選びました。

私たちの人間的な常識では、一騎打ちで戦う訳だから、兜や鎧、剣は、必須だと考えます。

しかし主は、今までダビデが培ってきた手法を用いて、ゴリアテを倒しました。

 

知人と私が口にした「もう祈るしかない」というのは、「もう他に方法がない・・後は祈るしかない」という考えが根底にあったから、「もう祈るしかない」という言葉が出たんだと思います。

問題に直面して直ぐに「祈るしかない」というのは考えが自分に起こされれば、その根底は「自分は無力で解決できない。主にしか解決できない。」という思いがあると思います。しかし、色々と模索した後、「もう祈るしかない」というのは、世の中で言う「神頼み的な発想」だと思います。色々と最善を尽くしトライしてみたが、良い解決方法が見つからず、、、最後の手段・・・

 

ダビデは、目の前の問題に対して、戦う方法を模索しませんでした。周りからのアドバイス(兜、鎧、剣)にも従わず主に委ねたのです。 何かに頼るのではなく、「主は、剣や槍を使わずに救う」と100%信じたのです。 皆が持つ武器はなくても、それ以上の神の力が最高の武器だと考えたのです。その信仰が、ダビデに勝利をもたらしたのです。

これはダビデだけの話ではなく、

私たちも同じように、目の前の問題に対して、主は私たちが今まで培ってきたもの。私たちの今までの生き方で得たもの、今までに培ったもの、また主の御力を用いて下さるのです。

目の前の問題に、私たちの常識は必要ないのです。 反対に私たちの常識は邪魔になるだけです。

問題が生じた時から、まず主に頼ることを習慣にしたいです。

タイトルとURLをコピーしました