「私たちの関心事」と「主の関心事」【イザヤ55:8-9】

2022年

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ―

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

イザヤ55:8-9

 

何か願い通りに事が運ばなかったり、

良くない事が続いたり、

祈っているのに答えを貰えなかったり・・・する事ってありますよね?

この様な時って、心はどうですか?

「どうして主は答えてくれないんだろう・・・」という思いから、時間に比例して、主に対して疑問が生じ、不満が心に生じます。

多くの人が、「主は本当に居るのかな?」「主は私の事を忘れてるんじゃないかな」「今まで、導きを受けていたと思っていたのは、単なる偶然だった?」というような思いが、頭を過ぎるように思います。

そうなると、次にとる行為は・・・ 自分で解決を試みるのです。

まず沢山の人に相談しませんか? また、調べたり、あらゆる可能性を考えたり、将来性を天秤にかけてみたり、もしくは、聖書を読んで目に入った御言葉が、自分にとって心地よければ、それを「主からの約束」「導き」として受け取ったり・・・ジタバタします。もがく時間を過ごします。

もがく時間が長くなると、主に対して疑心暗鬼の沼に陥るのです。すごく嫌な時間ですよね。

祈ったら、「あなたの道はこれだよ!」とハッキリ示してくれたら、どれだけいいか・・・とも思いませんか?(私はいつも思う)

もし、「自分の望む道」が、すでに心にあって、それとは別の道をハッキリ示されたら・・・多分私たちはそれはそれで、ストレスを感じると思います。「本当にこっちですか?」「こっちの道はダメですか?」と駄々をこねそうです。

私の目の前に、選択できる道が、A・B・Cと3つあったら、私は、目の前の道を凄くクローズアップし過ぎるぐらい、集中し思い悩みます。

でも主の目は、もっと上にあります。 主は大きなスパンで物事を見てると思います。私たちの関心は、目の前にあるA・B・Cという選択ですが、主の関心はそこにはない可能性もあります。

実際、A・B・Cのどれかを選択すれば、それで人生が終わってしまうような事は、殆どないと思います。

Aを選べば、Aから生じるA1・A2・A3と言う選択肢が、時間の経過と共にまた出てくるのです。同じように、Bを選べば、Bから生じるB1・B2・B3と言う選択肢が、時間の経過と共にまた出てくるのです。

主の道は一本ではないと思います。

正解は一つで、それ以外は御心外・・・ではないと思います。

Aを選べば、Aから道が続くのです。BにはBの道があり、CにはCの道があるのです。

主の関心事は、目の前にあるA・B・Cの選択より、「私たちの信仰」に関心があるような気がします。 祈っても答えが分からない私たちの信仰がどのように揺れ動いてしまうのか。

私の心は密かに「A」を希望していて、主がハッキリ「Bだよ!」と答えることによって、私の信仰は、大きなスパンで見たら良くない影響を及ぼすかもしれません。

例えば、自分の望む答えじゃない事に、怒りを感じながらも主が示すBの道を歩み、少しつまずいた時、「どうして??Bって言ったよね??」と言う風に。

結局は、自分の中で犠牲(我慢・従順)を払って、主の御心に従ったら、スムーズに事が運ぶと思ったのに、つまずいたり問題が生じたりすると、「え?何?どうして?これが御心でしょ?」 と言う思いから、主の導きと勝手に思い込んでいたのかもしれない・・というようなジレンマに陥ったりします。

私が密かに「A」を望んでいて、主が「Aだよ!」と答えたら、私は、凄く喜びますよね! スッゴク嬉しくなって、ウキウキしながらAを選択します。信仰がUPしたようにも感じます。

しかし、しばらくして、また選択肢と出会い、自分の望み通りではなく、凄く嫌な選択を主に示されたら、どんな反応を起こすでしょうか?

ウキウキした信仰が忘れられなく、それでも嫌々主が示す方を選択したのに、少しつまずいたら・・・その先の私の信仰は、どの様な影響を受けるでしょうか。

主の目は凄く高い所にあるのです。大きなスパンで私たちを見ておられます。

これが正解かどうかは分かりませんが、

私は、主が示されない時は、ギリギリまで待ちます。主の声は決して大きくないので、心静め、期待して待ちます。

それでも答えが分からない時は「主よ。私なりに心をフラットにして、心静めて主の導きを期待し待っていましたが、分かりませんでした。私はAを選びたいと思います。主が語っておられたのに、私が聞こえていなかったのかもしれません。また感じる事が出来ていなかったかもしれません。Aが主の御心でない道であるなら、私がAを選んでもAの道を塞いでください。その時は、喜んで道を変更します。」と祈るようにしています。

主は、目の前の選択肢より、答えを示したその後の信仰の方に、関心があるように思います。

主が、私にハッキリとした選択肢を示さないのは、今の私にとって、信仰面においてプラスになると考えられているように感じます。

主にとって、目の前の選択肢より、これから続く信仰の方が大切だから。

目の前の選択肢より、信仰を持って人生をゴールする方が、もっと重要だから。

もしくは、祈りながらも、心落ち着かず(早く答えが欲しい)、自分であれこれと考えすぎたりして、主の小さな声が聞こえていない可能性もあります。

今日の御言葉、

「わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」

主は、必ず良いものを与えて下さいます。

私たちの目にはそのように見えなかったとしても・・・

主の目で、世の中を、自分の人生を見れるようになりたいですね!

今日も、主の中で豊かな恵みある一日となりますように!

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