クリスチャンは不自由?【ヨハネ8:32】

2022年
Close up of young man hands hold and reading holy bible.Christian faith concept

真理はあなたがたを自由にします

ヨハネ8:32

クリスチャンでいるって事が、不自由に感じますか?

「クリスチャンって、何か損してる感じがする」「クリスチャンでいる事が、不自由な感じがする」「〇〇したらダメとかあるし」「真面目に生きないといけないし」「日曜日は絶対に教会行かないといけないし」・・・

こんな話を時々聞きます。

どうですか?

クリスチャンになって良かったとは思うけど、何か社会では肩身が狭く感じたり、

変に見られないかと心配したり・・・

そんな風に感じた事はありますか?

ある方が、「クリスチャンになって本当に良かったと思う。でも社会では不自由だと思うんだよね。でも私は、日常で不自由さを感じたとしても、神さまがいない人生は考えられない。神さまがいない人生の方がもっと不自由だから、それに比べたら、クリスチャンとして世の中で感じる不自由さは、小さいと思っている」と言いました。

「そうなんだ・・・なんだろね~ その気持ちが分かるようで、分からない感じもする(笑)」と答え、何かがモヤモヤしていました。

だって・・・何か妥協してるってことですよね?

私は、多分、彼女が感じているほど、世の中で不自由を感じていないからだと思います。

数日、心がモヤモヤしていました。そして一つ思い出したことがあります。

我が家の次男の学校の話です。中学生ですが、今年から髪型が自由になりました。もともと髪型の校則が厳しい訳では無かったのですが、一層自由になりました。(カラーは禁止)

次男は、速攻、美容室に行き、今まで校則違反だった髪型に変えました。でも同じ学校の友達を見ると、それほど校則があった時と、大差ない髪形です。奇抜な髪形の生徒は一人も居ませんし、自由になったのに、殆どの生徒は校則があった時と同じ髪型です。

これは、大半の生徒にとって「特に髪型に興味がない」からです。髪型にすっごく興味があれば、校則があることに不自由さを感じるでしょうが、興味がそれほどない生徒にとっては、校則が変わろうが変わるまいが、関係ないのです。

「不自由さを感じる」というのは、自分もそれに対して、興味や憧れを感じているのに、それをすることが出来ないから、生じてしまう心情だと思います。

例えば、彼氏や彼女がいる人が、毎週末デートするとします。第三者が「お前、毎週末、デートしないといけないの?? 自由がなくて可哀相!」って言わないですよね?

彼氏や彼女は、好きでデートしているのです。 週末が待ち遠しいのです。 だから、互いに、何よりもデートを優先させるのです。

でももしも、どちらかが相手に対して、愛情が冷めてしまったら・・・以前の様な、ウキウキしたデートにはなりませんし、早く帰りたいと思うかもしれません。急にデートをすることに不自由さを覚え、なんなら、急用が出来たとキャンセルするかも・・・

人は、魅力のあるものを求め、魅力や興味がないものには、目も心にも留まらないのです。

もしも、「クリスチャンが日曜日ごとに教会へ行く」というのが、不自由だと感じるなら、自分の興味が他に奪われている状態だからではないでしょうか?

「お酒が飲めない」という事に不自由さを感じるのであれば、お酒に対する憧れや、魅力を感じているからではないでしょうか?

「真面目に生きないといけない」という事に不自由さを感じるのは・・・どのような生き方を望まれているのでしょうか?

また、もし法律や校則が、中高生、たばこOKになったとします。

興味本位で吸ってみる子がいるかもしれませんが、サラリーマンのようにプカプカと休み時間ごとに吸いに行く子は少ないのではないでしょうか?

多くの子どもは、その様な自由があっても、吸わないという事を「選択」すると思います。

タバコは身体に悪い。成長期に良くない・・という「共通の認識」を持っているからだと思います。

私たち人間は、エデンの園から離れて何千年も経っています。

私たちの思考は、主の基準から大きく離れていると思います。私たちは、主と「共通の認識」を持てていないのです。

私たちは、主と大きく基準を離れた思考で、物事を見て、考え、価値を決めています。

しかも、日本はクリスチャンは少なく、聖書的思考、聖書的価値観を持つというのはマイノリティ(少数派)な立場なのです。

私たちクリスチャンでさえ、主の価値観と離れてしまっています。

その上、主とは違う価値観の世の中に身を置いているので、余計に私たちの価値観も、主とは違う方向に引っ張られ、揺れ動かされてしてしまうのです。

だから、不自由に感じるというのは、自分の興味や楽しみが、違う方向に向いているという事。

そして、大多数の価値観に引っ張られているという事だと思います。

・・・不自由さを感じるというのは、「あなたは私の価値観と、違う方向を向いてるよ! 世の中に引っ張られているよ」!という主からのサインです!

 

アメリカや韓国では、「自分がクリスチャンである」という事を人に話す事に、ためらいはないと思います。社会の中での「共通認識」で、キリスト教が悪いものではないからです。

私たちは、どうしたらいいのでしょうか?

もちろん、日本が福音化されれば、人々の価値観も徐々に変わって来るでしょう。

だから、日本が福音化するまで、日本という社会の中で、クリスチャンが市民権を得るまで、今の場所に立ち止まり待ちますか?

自分に出来ることって何でしょうか?

もともと、クリスチャンである私たち自身も、主の価値観とズレているのです。

まず、自分に出来ることは、自分のの価値観を主に近づける事だと思います。

だからこそ・・・・ 毎日、聖書を読む! です(笑)

聖書に触れ、主がどういったお方なのか、知っていく必要があるのです。

そして、それを積み重ね、流されない信仰を持てるように・・・

「聖書ね~分かってるんだけど・・」という方は、「箴言」から読むのはどうですか?

箴言は31章あります。1日1章で、何度も繰り返すのです。

箴言は「知恵の書」と言われていて、読みやすいと思います。

かけ離れた思考を持っているという自覚をもって、意識を持って・・

今日も、主の中でお過ごしください!

私も、自分の思考が主からズレているという自覚を持って、今日一日を過ごします!

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