妥協して生きていませんか?【ヨハネ15:9-11】

2022年

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

ヨハネ15:9-11

 

主にとどまる・・・ってどういう状態ですか?

毎週礼拝に来ること。熱心に奉仕をすること。主のために何かを行うこと…

それらも本当に大切なことですが、それだけでは主が言われている「とどまるこ」と言う事にはならないようです。

「とどまる」は、一時的なものではなく、「毎日」の歩みであり「継続的」なものです。

「いつも」主と共に時間を過ごし、「毎日」主との親密な交わりを持つことです。

主をいつも記憶し、主を自分の中心に置き、親密で近い関係を保ち、常に繋がっている。

ぶどうの実が枝に繋がるように、主から毎日栄養を頂く。主から命を頂くのです。

 

私たちは時折、主から離れようとします。

無意識して離れようともしますし、意識的に離れようともします。

無意識は、毎日のルーティーンだし、、深く考えず、物事をこなしていく事が多いです。

特に主が必要ないというか、いつもの日常なので主を思い出さなかったり・・

意識的には、少し離れたいと思ってしまう事はないですか?

少し離れて自由になりたい。何となく解放されたい。主なしでやってみようとか。

どう考えてもこれは大丈夫!と自分で判断したり。

意識的であっても無意識であっても、主から離れるという行為は、何となく、「自分で何とか出来る」と思い込んでる部分があるようです。

これは人間の「うぬぼれ」だと思います。

ふと頭を過ぎる、「神様が居なくても一人で生きていけるんじゃないか・・」という考えから来るんだと思います。

 

どうして主は「私にとどまりなさい」と言われているのでしょうか?

「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」とあります。

主の喜びで私たちが満たされる為に、主にとどまりなさいと言われているのです。

心配、不安、恐れ、悩み、思い煩いの世界の中に、身を置くことが普通になっていませんか?

さほど、大きな問題に見舞われない限り、不安や恐れの世界に身を置くことに慣れていませんか?

多少の心配があっても、「これぐらい・・」「まだ大丈夫」と思っていないでしょうか?

 

私たちはとどまる場所を変えなければなりません。

これぐらい大丈夫・・と妥協して生きるような、世界に身を置く必要はないのです。

主の愛の中にとどまる者は、主は喜びで満たそうと約束して下さっているのです。

今日も、主の中にとどまり豊かな一日をお過ごしください!

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