ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。
ヨハネ2:13-17
ソロモンが初めて建てたエルサレム神殿は、”第一神殿”と言われています。
ソロモンは「主が私たちと共にいてくださいますように」という願いを込めて建てました。「たとえ異邦人であったとしても、ここで主に祈る者の祈りを聞いて下さい。」と祈りました。
ソロモン以後、王の不信仰により、民はバビロン捕囚となり、ユダの地から連れ去れました。そして、ソロモンが建てた神殿も壊されたのです。
70年の月日が経ち、ユダの民は祖国に帰る事を許されました。そして荒れ果てた神殿を再建築するのです。これが”第二神殿”です。
また長い月日が経って、ユダヤはローマ帝国が支配している時代がありました。ユダヤ人でない、ヘロデ大王は、ユダヤを支配し統制する為に、”神殿の拡張工事”をしました。
ユダヤの民は、毎年祭りの時期になると、いけにえを捧げようとエルサレムに上ってきました。
しかし民のいけにえに対する思いは、ソロモンの時代とは違いがありました。
ユダヤ人の王のソロモンは、自分の民が国籍を超え、主と出会う場所として神殿を建てましたので、民たちも神殿とは、主の前に一番良い捧げものをする場所として、主を崇める認識がありました。
しかし、時代が流れ、ローマ帝国のヘロデ王の時代の神殿は、ヘロデ王自体が、神殿を利用しユダヤ人を統制する為に、自分の統制に紺代が生じないようにするために教会が立っていました。
もはや、神を崇める場所ではなく、自分の為の教会だったのです。
ですから、ヘロデ王の統治下にいる民たちも、捧げものが、祭りが、感謝の捧げものというより、「儀式化」されていったのです。いわゆるイベントの様なものとなっていったのです。
神殿の本質が失われてしまって行き、神殿はもはや、あくどい商売の場所となってしまっていました。神殿の本質を失い、自分の利益のために神殿が利用されているのを見て、イエスさまは怒られたのです。
コロナが始まった時、世界にインターネットが発達していて良かったと思いました。
集まれない時に、ネットを通して御言葉を聞けるのです。とても感謝です。
また、病中の方にとっては、ネット礼拝は本当にありがたいものです。
コロナが思いの外、長く続き、ネット礼拝が定着して2年半ほどたちました。
人には、良くも悪くも、習慣を吸収する力があります。
ネットは便利で、好きな時に、自分好みの説教を探して聞けます。また忙しいこの時代、倍速で聞く人も多いです。
もし、コロナが終息したら、人は時間をかけて教会に足を運ぶでしょうか?
世界の教会が懸念しています。
私たちは気を付ける必要があります。
ヘロデ王の統治により、教会の本質が失われていったように、私たちも、新しい習慣になれてしまい、便利さを重視し、イエスさまが「二人または三人がその名によって集まるところには、私もその中にいる。(マタイ8:20)」と言われていた事を忘れるかもしれません。
教会は、主に会いに行く所であり、牧師先生を通して、主の御言葉を聞きに行く所。兄弟姉妹と愛し合う所なのです。私たちが、主に礼拝を捧げに行く所が教会なのです。
「便利だ」「楽だ」という理由でネット礼拝を選ぶのは、自分が便利で楽だからです。
礼拝とは、自分が主に捧げる為に集うものであり、自分にとって楽で便利だと良い所だけを取って、済ませるのが礼拝ではないのです。
倍速で、手っ取り早く済ませるのが、主が喜ばれる礼拝ではないのです。
自分の心地よい説教だけを選んで聞くのが、主に捧げる礼拝ではないのです。
私たちは、今一度「礼拝とは?」「どうして教会で礼拝を捧げるのか」などについて考える必要があります。
何も考えずにコロナ禍が終わると、楽な方、自分にとって便利な方、融通が利く方を選ぶのは目に見えています。
そのような礼拝は、儀式を守っているだけなのです。
自分は、主に対して正しい姿勢で礼拝を捧げているか、考える一日にしましょう!
今日は、主と人に仕える一日にしたいです・・・