間違えた絶対的価値観【使徒の働き15:7-9】

激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。

そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、

私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。

使徒の働き15:7-9

 

この話の流れ・・・アンテオケでパウロが「神様は、異邦人に信仰の門を開いてくださった」と宣言。それを聞いたパリサイ人たちは「それならば、異邦人にも割礼をうけなければ救われないし、モーセの律法を守ることを命じるべきだ」と主張。➡ パウロとパリサイ人の間に激しい対立が起こる。➡ この問題を解決する為、使徒や長老たちと話し合うためにイスラエルに上る。➡ 激しい論争の末、ペテロが発した言葉が、上記の御言葉である。

 

今朝、この使徒の働き15章を読んで「人の心の中を知っておられる神」という言葉が心に残った。

パリサイ人たちの心の中はどうだっただろうか?

「主の救いはイスラエル人の特権だ」「異邦人はだめ」「異邦人にも救いの道が開かれたなら、私たち同様、割礼を経験させるべきだ!(同じ痛みを味わえ!)」「異邦人のくせに」

パリサイ人が、異邦人を拒否し対立するのは、自分たちは「選ばれた民族」だという思いがあるから。

今の時代に生きる私たちの価値観は「人間みな平等」であり「いのちは同じ重さ」「差別はいけないもの」という価値観で生きている。

でも当時のパリサイ人にとっては、異邦人は絶対に受け入れられないという価値観がある。なぜならば「彼らは異邦人だから」この絶対的価値観が、大きな怒りとなり対立・論争へと発展する。

 

私たちの心の中はどうだろうか。

何か絶対的価値観はないだろうか? 絶対的価値観をもとに、怒りが自分を支配していないだろうか。

絶対的価値観をもとに、悲しみや孤独の闇に包まれていないだろうか。

 

パリサイ人が「異邦人だから」という絶対的価値観を持っていたように・・・

自分がもっている絶対的価値観は間違えている可能性が大きい。

間違えた絶対的価値観から、私たちの心は止まることを知らないかのように暴走してしまう。

怒りは増々大きくなり、悲しみは底がないかのように深くまで落ち悲観的に自分を見てしまう。

 

私が一人で勝手に暴走してしまっている横に、もしイエス様が居て下さって、

私の背中を数回擦って「大丈夫。暴走しなくて大丈夫。」と言って下さったら、どうだろう・・・

私ならハッと我に帰れるような気がする。

 

私は凄く自分が愚かだと思う。主を知りながらも、時折暴走してしまう。

自分が自ら間違えた絶対的価値観を持ちながら、自分勝手に、凄く怒りを感じたり、悲しんだり、絶望を感じたりしている。泣いたり笑ったり怒ったりしているのである。

そんな愚かな私でさえも、主は「私の心の中を知っておられる神」である。

愚かな私を理解してくださり、受け入れて下さる神様なのである。

 

今年は自分の絶対的価値観を一つでも多く見つけ、一つづつ解放されようと思う。

一番良い探し方は、自分の感情が動いた時。

どうして今悲しいのか、この悲しさはどこから来るのか。

どうしてこんなに腹が立つのか。この苛立ちはどこからくるのか。

 

感情が止まらなくなり自分でどうすることも出来なくなった場合、

主に背中を擦って欲しいですよね? 「そんなに悲しまなくて大丈夫・・」って。

それも方法があります。

感情が止まらなくなったら、それを止めてくれるのは「聖書」です。

「聖書」であり「祈り」であり「賛美」です。

聖書には、私たち人間が人生で感じるすべての悩み、悲しみ、怒り、挫折・・・に対して書いてあります。 祈りも賛美も同じです。

 

私たちの感情が動いた時(怒り・悲しみ・喜び・挫折・失望なんど、、)がチャンスです。

感情が動いた時、どうして今感情が動いたのか。主に教えてもらえるチャンスです。

そして正しい価値観を持てるチャンスです。

主と深く交わり、主を感じれるチャンスです。

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