選択の自由【創世記2:16-17】

2022年

神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。

しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

創世記2:16-17

 

昨日聖書を読んでいて(使徒の働き15章)

私は、キリスト教ってちょっと不思議だなと改めて思いました。

パウロとバルナバの時代に、異邦人の間にも主を信仰する人が出て来て、

福音、救いが異邦人にも開かれたという話です。

異邦人にも割礼が必要かどうかという論争があり、結果的には

4つの事を守るようにと結論がでました。

「偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように」

これらのことを異邦人に書き送るようにと聖書に記されています。(使徒15:20)

 

全くキリスト教とは縁がなかった人たちに、救いを得るために伝えたのは、

「この四つを禁止する」という内容だけでした。

時代的な背景もあるのかもしれませんが・・・

もし私なら・・・

「日曜日は主日とし礼拝を守る」「収入の10分の1を主に捧げる」とか・・

「〇〇しなければならない」という項目も入れるような気がします。

 

聖書を読んで改めて「え?4つの禁止だけ?」と驚きました。

でもよく考えると、主が人間を創造された創世記を見ると・・・

主がアダムとエバに言われたのは

「園のどの木からでも食べて構わないが、善悪の知識の木からだけ取って食べてはいけない」

この1つだけでした。

 

善悪の知識の木・・・これさえなければ私たちはずっとエデンの園で暮らせたのに・・と

子どものころよく思いました(笑)

 

主がアダムとエバに言われたことは、たった一つ。「善悪の知識の木から食べてはいけない」

これは神様が私たちに「自由」を与えるために置かれたもの。

アダムとエバには、神様に従う自由も、神様に従わない自由も与えられたのです。

アダムとエバに、自分で「選択をする」という自由を与えられました。

もしこの善悪の知識の木さえ、神様がエデンの園に置かなかったら、

私たちには「選択する」という自由がなかったのです。

善悪の知識の木さえなかったら、私たちは自由に生きれた・・・というのは大きな間違いで、

この善悪の知識の木が存在しなければ、私たちは「選択する」という事を知らずに生きる

自由意志のないロボット状態の人間だったのです。

主は、アダムとエバが自分の意志で「主に従う、主と共に生きる」という選択をして欲しかった。

 

もしくは、善悪の知識の木は「神様の領域」だと示されていたのかもしれない。

アダムとエバに、生きて行くのに全く不自由がないように沢山の物を与えれました。

好きなものを自分で選べる状態だった。

ただ、「あなたたちは私の被造物である。神にはなれない。神になろうとしてはいけない。

神の領域に入ってはいけない。」という意味で善悪の知識の木を置かれたのかもしれません。

 

聖書って、何回も読んでいますよね? 創世記も使徒の働きも・・・

でも読むたびに新たに発見することって本当に多い不思議な書物です。

 

主が私に与えて下さったこの手で、

今日も「主に喜ばれる良いもの」を選ぶことができますように!!

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