神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネ3:16
この御言葉、「聖書の中の聖書」「黄金の言葉」「小さな聖書」などと呼ばれたりします。
聖書を要約していくと、この御言葉になると言われているからです。
よく聞く御言葉であり、目にする御言葉。
改めて読んで見ると。
「そのひとり子をお与えになったほどに、‟世” を愛された」と書いてあります。
「世」を愛されたと書いていますが、
何となく・・「世」というより「私」として受け取ってしまっているように感じました。
神さまは世を愛された。主を信じる者、全てが永遠のいのちを持つため。
主の対象と関心は「世」・・「全世界」であり「御子を信じる全ての者」なのです。
「世」とは、創られたこの世界のすべての被造物とそこに住む私たちのこと。
そう思ったら・・・
私は今日、目覚めてから今まで、一体どんなお祈りをしただろう・・と振り返りました。
まず、目覚めて布団の中で・・
「天のお父様、おはようございます。今日も目覚めを与えて下さり、一日の命を与えて下さり感謝します」
「今日も、〇〇(毎日祈っている人の名前を全て言う)が霊肉共に健康で過ごす事ができますように。主と出会う一日となりますように」
「主よ。今日は〇〇と〇〇をします。忙しいです。主を忘れて過ごす事がありませんように」
「また、〇〇の問題、主よどうか心に留めて下さり、主の解決を見る事が出来ますように」
「〇〇もどうしたら良いのか分かりません。主よ知恵を与えて下さい」
「今日も、主と共に歩み、主を何度も思い出す一日となりますように。イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン」
(この祈りの中に夫、長男、次男の日々の祈りも入ります)
パターン化はしていませんが、大体こんな感じです。
朝の祈りだけを思い出しても、祈りの後半は自分に関する祈りです。
主の関心と対象は「私」ではなく「世」であるのに、私は自分の事ばかりに目が言っている様に思いました。
自分の問題、自分の家族、自分の友達、自分のするべき事、自分の祝福・・・
何となく、自分がツバメの雛のように感じました。ツバメの雛は、親鳥から餌を求めて鳴きます。
他の雛よりも、沢山貰おうと大きな声で鳴くのです。
何となく自分の祈っている姿がこの様に感じました。
「神さま! 私を祝福してください!」
「私の問題を解決して下さい!」
「私を・・」「私を・・」
主は、私の問題を解決するために存在する訳ではなく、私が今日も幸せを感じ生きる為だけに存在する訳でもない・・
私は、自分が主を小さくしてしまっている様に感じました。
主の対象と関心は「世」
自分の思いだけの祈りではなく、主の思いに近づく祈りが出来る神の子になりたい・・
いつまでも餌を求める雛鳥ではなく・・私も成長しなければならない。
私が雛の時、親鳥を通して餌という「祝福」を沢山貰い、祝福により私は成長し・・・
今度は、私が貰った祝福を雛鳥に分け与える(祝福を流す)親鳥の役目をする必要がある。と思いました。
主の御心に沿える祈りが出来る者と成長したいです。
今日、頂いた祝福を流す一日をお過ごしください!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」