主はどこに居られるのか【Ⅰ列王記19:11-13】

2023年

 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。

地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。

エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」

Ⅰ列王記19:11-13

久しぶりの友達からラインがありました。

「元気? 私はあまり元気じゃない… 最近、主を感じられなくなった…」と。

明るい彼女は凄く主に満たされた信仰を持っている姿が印象的でした。

しかし、少し前までは信仰に問題がなかったのに、最近は落ち目…

もっと正直に話すと、信じた頃は凄く恵まれたのに、ここ数年、パッとしない…

というのです。

あり得る話ですよね。

これは、誰もが経験する事だと思います。

旧約聖書に出てくる預言者エリヤ。

預言者とは、未来を予知するのではなく、主に託された言葉を伝える働きをする人です。

エリヤは偉大な預言者であり、神に愛された預言者であり、死を見ることなく昇天した人物です。

北イスラエルの歴史上で最悪の王 ‟アハブ王” の時代に働き、偶像礼拝をする民に対して預言活動をしました。

アハブ王は、首都サマリアに ‟バアル” という神の神殿を建てるという不信仰な王様でした。

エリヤはアハブ王に主からの予言を伝えました。

「私の仕えているイスラエルの神は生きておられる。イスラエルには数年間、露も降りず雨も降らない」

3年の雨が降らない月日が過ぎ、主の時がきました。

主に言われた通り、エリヤはアハブ王の前に現われ

「イスラエルの全ての人を集め、450人のバアルの預言者、400人のアシュラの預言者と共にカルメル山に集めて下さい」(アシュラも異国の神)
そして、雄牛を準備し、それぞれが信じる神に火をつけてもらおう。というのです。
バアルの預言者は朝から昼まで祈っても何も起きませんでした。
エリヤは、祭壇の周りに溝を掘り、大量の水を祭壇とたきぎの上に注ぎました。
エリヤは「主よ。私にお答えください」と祈りました。
祭壇の上に火が降り、雄牛もたきぎも全て焼き尽くされたのです。

これを見たイスラエルの民たちはひれ伏し、主を信じました。

エリヤは、立派な信仰者です。

エリヤはこの後、どうなったと思いますか?

この出来事を知ったアハブ王の妻 ‟イゼベル” がエリヤを殺そうとします。

イゼベルは悪女で、異国の神をイスラエルに持ち込んだ張本人だったからです。

エリヤは恐れを感じ、逃げ出しました。

そして弱気になり、

「主よ、もう十分です。私の命を取って下さい」と祈ったのです。

450人と1人で対峙したエリヤが、イゼベルの一言でこのような弱気にな姿になったのです。

どうしてでしょうか。

カルメル山での戦いにおいて、多くの民が主にひれ伏し、真の神が主であると知りました。

それほど、偉大な奇跡にエリヤは用いられたのです。

しかしイゼベルは、偉大な奇跡にさえひれ伏さなかったのです。

イゼベルには何の変化もなく、一層強気に出て「エリヤを殺せ」と言ったのです。

エリヤは、この様な御業を見ても、人が変わらないとい、主の前にひれ伏さない、現実に唖然としたのではないでしょうか。

エリヤは逃亡生活を余儀なくされました。

いったいあの大勝利は何だったのか。あの喜びは何だったのか。自分の働きはいったい…そのような空しさに捕われ、虚無感を感じたのでは…。

大きな恵みが信仰を強め、大きな問題が信仰を弱める…とは限らないのです。

たった一言で、大きな恵みをひっくり返す事が出来るのです。

エリヤは虚しさに捕らわれ、自分の命が絶える事を願う程にまで落ち込み、洞穴で一夜を過ごしました。

エリヤの信仰でさえ、この様な短期間で極端な浮き沈みが激しい時があったのです。

私たちの信仰にも、浮き沈みがあり、エリやが洞穴に入った様に、私たちも自ら心が洞穴、闇の中にに閉じこもってしまったりします。

エリヤは、洞穴にいる時に主に出会いました。

「エリヤよ、ここで何をしているのか」

「エリヤよ、何を悩んでいるのか」

そして、「わたしの前に立て」と言われました。

洞穴の暗闇の中から、光が射す方へ導かれたのです。

あなたの神である私は、あなたの前から消えたのではなく、あなたの目の前にいる。

だから、「私の前に立て」と言われたのです。

今日の聖書の箇所を読むと、

主は、山を裂き、岩を砕くような激しい風の中や、地震の中、火の中におられなかったのです。

その様な激しい出来事の中ではなく、

その後の「静かにささやく声」の中に、主が居られた事に気付いたのです。

派手やかな出来事や、皆が心奪われる勝利、大きな成功の中ではなく、

主は静かに語られるのです。

悲しさで自分の心が空っぽになり、失敗や挫折を通して自分には何もないと知った時、主は語られるのです。

主は静かに語られる…

だから、信仰が上がったり下がったりと浮き沈みがある時、

私たちが沈み切った時、主に会えるんだと思います。

今日も、主の前で心を落ち着け、主の静かな語りかけに耳を傾ける一日となりますように!

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