何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。
Ⅰコリント10:31b
数日前から心が落ち着きません・・
今からどの様に時間を過ごせばいいのだろう。
どの様に生きて行けばいいのだろう。
今から何をすればいいのだろう。
私はどの様に祈れば良いのだろう。
とりあえず、一日に何度も覚え祈ろう。
そして少しでも前進しよう。
その様な事を考える中、思い出したのはパウロです。
パウロは本当に素晴らしい主のしもべです。
人生を宣教の為に捧げた、という点だけではなく。
宣教中に牢獄生活を強いられても・・
パウロは自分の置かれた状況から解放されたい、逃れたいと望まなかったのです。
多くの人は、普通の宣教師ならば、宣教をして牢獄に入る事になれば、解放を求めます。自分を祈り支えてくれている方々に、祈りの支援を求めるはずです。
パウロは、自分が牢獄に入れられても、パウロの祈りの支援者に対して、解放の祈りの要請をせず、パウロが牢獄の外にいる人々の信仰を祈っていたのです。
それともう1つ。
牢獄に入れられ、自由に宣教が出来なくなったパウロがとった行動・・・
牢獄の中で出来る宣教をしたのです。
沢山の教会に手紙を書いたのです。
牢獄に入れられ宣教の足を止められたら・・・私であれば次の一手、解放された後のプランを考えると思います。
解放された後、どの方面に宣教へ行こうか。どのルートを通って行こうか。道中、誰と会い交わりの時間を持とうか・・
パウロはそのような次の計画を思い浮かべる時間を持たなかったのです。
その様な事に時間を費やさなかったのです。
宣教先は主が与えて下さるものであり、必要な時に必要な人と出会うという思いがあったのです。
自分で考える宣教ではなかったという事です。
状況に左右されず、心奪われず、置かれた場所で出来る事をしたのです。
多くの人にとって、宣教旅行中に牢獄に入れられれば「悪の攻撃が・・」と大騒ぎになり、心が乱れ悲観的になると思います。
解放のとりなしの祈りの要請をしないという事は、宣教旅行の立ち寄る場所の1つと言う風にとらえていたのかもしれません。
牢獄が悲惨な場所で、宣教に対してマイナス的なものではなかったという事です。
そんな事を黙想しながら、もう1つ思い出しました。
ダビデとゴリアテの話です。
イスラエルとペリシテとの闘い。
ゴリアテの背丈は3m程、あったようです。それに対してダビデは15歳程だったと言われています。
戦場に出た経験もなく、戦場に出る兄たちのお弁当を届けるしか出来ない子どもだったのです。
イスラエルの戦士でさえ、ゴリアテとの一騎打ちに手を上げれなかったのです。
ダビデはゴリアテと接戦の末に、何とか勝利を得たのではないのです。
5つの石を持って行き、1つ目の石で勝利したのです。
ゴリアテと競り合い、ボロボロになりながらもどうにか得た勝利・・ではないのです。
その場にいた全ての群衆は、誰が見てもゴリアテの圧勝だと思ったでしょう。
しかし、一瞬にして、ダビデが勝利したのです。
誰も想像できない勝利の仕方です。
そんな事を黙想しながら、
自分で色んな事を考え動くのではなく、与えられた環境で出来る事を探そう!
そしてまたもう1つ思い出しました。
韓国で出会った「しなやかな信仰」を持っている80代のおじいちゃんと、私の母。
「信仰生活で大切にすること」と言う私の質問に対して、以前、2人が私に同じことをアドバイスしてくれました。(ブログ22.12.08)
騒がず主を見上げる信仰・・
おじいちゃんは、「何が起きても騒がないようにしなさい。韓国の信仰者は直ぐに”サタンの攻撃を受けた”と口癖のように言う人が多い。この世にサタンがいない訳ではない。攻撃を受ける事もある。でも騒いで喜ぶのは誰か考えなさい。騒がず静かに見上げる信仰を持ちなさい。」と言われました。
主に祈る中、沢山の事を思い出しました。
今日は、予定を変更して・・実家近くの神社を祈りながら一周回ってきます!
今日も、主と共に歩む一日をお過ごしください!!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28-29)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」