私たちの善意に隠れているもの【創世記3:4-6】

2023年

そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

創世記3:4-6

久しぶりに友達のAさんから「祈って・・・💦」と連絡がありました。

話を聞くと、Aさんの友達のBさんの事で疲れを覚え、「もうどうしたら良いのか分からない!!」と言う状態だそうです。

Bさんは頼れる家族も友達もおらず、全てをAさんに頼ってくるそうです。

幼い時から虐待を受け辛い幼少期を過ごし、小中高、そして社会人になっても人間関係が難しいようです。

クリスチャンであるAさんはBさんが「救われて欲しい・・」と節に願っています。

そして色々と相談に乗り時間も心も費やし、かなりの年数になっているそうです。

でも、もう限界を感じるそうです。Aさんは「自分ではどうする事も出来ない💦」と自分への無力感、終わる事のない愚痴を聞く事に疲れ果てた様子。

Aさんは凄く優しい方です。

本当に親身になりBさんが救われて欲しい・・と願っています。だから、いつも他に頼れる人がいないBさんに寄り添い、何とか力を得て生きて欲しいと願い祈っているのです。

凄くAさんの気持ちが分かります。

Aさんの話を聞いて思い出した事がありました。

私もAさんと同じような思いになった事があるのです。長男が4歳の時に、我が家に里子の男の子が来ました。

生まれてすぐ病院から我が家へ。

私は初めての里子に凄く心が動かされ「絶対に愛してあげないと!」「この子は私が大切に育ててあげないと!!」と思っていました。

この子が我が家に来て2年後に私は次男を出産しました。

しかし私は、次男の子育てを夫に任せ、里子くんに必死になってしまいました。心の中で「次男は大丈夫。夫もいるし長男もいる。でも里子くんは一生この家に居ないだろうし、私が愛してあげないと・・!」と思っていました。

「里子くんには私しかいない」と思っていたのです。

そして、里子くんは小学校入学前に実母の家に帰りました。その後、私は子育てに対して「燃え尽き症候群」に・・

自分に与えられた期間、一生懸命育てたつもりでした。心が燃え尽きてしまい、次男はまだ幼児なのに、変わらず次男の子育ては夫に任せていたのです。

(これは、後に私と次男との関係性に何年も続く(今も?)大きな問題となりました・・💦)

心が燃え尽き、小さな次男を見ても長男や里子くんの時のように心が動かないのです・・

その時知った言葉があります。

「メサイヤコンプレックス」

メサイヤとはメシアのことで、

「自分には価値がない」「不幸な人間だ」といった劣等感を抱えている人が、他者を救うことで自らの劣等感を補おうとする心理を意味します。

私が里子くんに必死になったのは、私が里子くんを愛し大切にし里子くんにとって絶対的な位置に立つことによって、自分の価値を高め劣等感を補おうとしているのです。

もちろん、そのように自分の価値を高めよう。劣等感を補いたい・・と言う様な考えを持って子育てをしていた訳ではありません。

自分の中で、純粋な思いで、何とかしてあげたい。寄り添いたい・・と考え、子育てに没頭したのです。

しかし、自分は良いと思ってとっている行動の裏側に、自分を満たそうとする心理が隠れている場合があります。

これは良い、善意だと思ってとっている行動が、自分を満たし相手にとって自分がメシアになろうとするのです。

自分の頭で考え、「これは善意だ」「良い事だ」「正しい事だ」と思っている思考の中に、実は自分が他人よりのし上がろう。自分を高めようとする思いが潜んでいるのです・・・

私たちの善意の中にも、誘惑が潜んでいるのです。

 

主と私たちは、「ものの見方」「考え方」「価値の置き方」・・全く逆の事が多いです。

貧しいものは幸い。悲しむ者は幸い。

右の頬を打たれたら左の頬を出す。

敵を愛しなさい。

聖書を見ると、私たちの価値観とは全く真逆の事を言われている事が多いのに気付きます。

イエスさまは神の子であるのに、神の子らしくない人生です。

王族や権力者から生まれようとはされず、貧しい両親の元、馬小屋で生まれました。しかも十字架刑で亡くなっています。

イエスさまは神の子であるのに、崇められようとせず、下に下っていくことをされました。

私たちはどうでしょう・・

多くの人は、少しでも良い生活。今よりも豊かな生活。不自由がない生活・・を目指します。

自分の職場、自分が属するコミュニティー、友達関係のなかでも認められるように努力します。

自分の立ち位置が虐げられる所ではなく、一目置かれる所を望むのです。

私たちは、上へ登ろうとする思いがあるのです。

 

知らず知らずのうちに、自分の中にメシアになろうとする思いがあるのです💦

私たちは、自分の良心や自分の善悪の判断だけに頼れない存在なのです。

エバも善悪の知識の実を食べる前に「神のようになろう」という思いがあった訳ではないのです。

凄く自然に、誘惑が自分の頭に、目に入って来るのです・・

 

主の価値観、主の判断、主の思い、主の考え方、私たちが持つべき基準、私たちが持つべき思考・・

これらは全て聖書に書かれ、既に私たちに与えられています。

聖書を読み、御言葉を心に刻み、一つ一つを主に委ねながら祈りながら生きて行く事が大切なのです。

今日も聖書を開き、御言葉を心に刻みたいです。

時折立ち止まり、主と共に歩めているか、心を主に返しながらお過ごしください!

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