自分の性格・・どうですか?【Ⅰペテロ4:10】

2023年

それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

Ⅰペテロ4:10

自分の性格についてどう思いますか?

「もう少し・・だったら・・」とか思いませんか。もしくは「〇〇さんのような性格だったら」とか。

イエスさまの弟子たち、12人も一人一人が個性的な性格でした。

★ペテロ(シモン)

アンデレの兄で12弟子のリーダー的存在でした。

直情的、情熱的で誠実でしたが、人間的な失敗が多く、おっちょこちょいでした。

水の上を歩いたり、イエスさまを捕えようとするローマ兵の耳を切り落としたり、三度主を知らないと言ったペテロ。

★アンデレ

ペテロの弟。ペテロとは違い、物静かで真面目。敏感な人。5つのパンと2匹の魚を見逃さず、イエスさまに持って行った人物。

★ヤコブ(大ヤコブ)

12弟子のヨハネの兄。兄弟そろって、血気盛んで向こう見ず。イエスさまにヤコブとヨハネは「雷の子」と呼ばれるほど、気性が荒い性格でした。

★ヨハネ

大ヤコブの弟。兄弟共に勝ち気。自己肯定感を高く持っており「イエスに愛された弟子」と自分の事を表現しています。

余談ですが、このヨハネだけが殉教していません。

★マタイ

弟子になる前は徴税人で多くの税を取り立てていたので、人々から憎まれ、蔑視されていました。熱心党のシモンと仲が悪くライバル関係。

★フィリポ(ピリポ)

イエスさまが初めに声を掛けた弟子。12弟子の中で最も親しみやすい人柄だったと言われている。イエスさまに従う道中は食料調達係だった。イエスさまの教えを広める働きより、人々を直接イエスさまの元に導く働きをしました。

★バルトマイ(ナタナエル)

イエスさまがバルトマイを初めて見た時に「真のイスラエル人」と評価しました。余り目立つ存在ではありませんでしたが、忠実な弟子でした。

★トマス

思った事を隠せない正直者であり、見たものしか信じられない愚直な面もあった。イエスさまの復活の後も「手に釘あとを見、指をその釘あとにさし入れ、手を脇にさし入れなければ信じない」と言った人物。

★シモン(熱心党)

ローマを敵視し、ローマ帝国からの独立を目指す過激な愛国グループのメンバーだったという説がある。「熱心党のシモン」と呼ばれていたと記録がある。(あだ名だという説もあり。)

聖書には活躍は殆ど記録がなく、正義感が強く情熱的で過激な性格だと想像されています。ローマ帝国の徴税人だったマタイと仲が悪く、イエスさまが昇天後に和解。

★ユダ(タダイ)

イスカリオテのユダとは別人。聖書には殆ど記録がない。12弟子として活動していたが周辺的な存在とされている。

★ヤコブ(小ヤコブ)

聖書には殆ど記録がない。12弟子として活動していた。

★マティア

ユダは裏切った後、後悔し自殺しました。その後、新しく加えられた弟子。

弟子や120人の者が集まり、いつもイエスさまと共に居たバルサバとマティアのどちらかを弟子にしようと、くじを引いて、マティアが選ばれた。

★ユダ(イスカリオテのユダ)

イエスを裏切り、ユダヤ教指導者たちに引き渡した人物。もともとは真面目な会計係。

 

弟子たちは、人間的に立派であり、人々からも一目置かれるような品性を持っていたから選ばれたのではないのです。

私達と同じような個性的な性格を持つ人間だったのです。

主に出会い、何度も失敗を繰り返し、時には叱られ、ため息をつかれ・・

3年間も寝食を共にし、イエスさまの奇跡を目の前で見て来た弟子たち。それでも弟子たちは、イエスさまが十字架に架かる時も、離れて息を飲んで見守る事しか出来なかった人たちです。

その弟子たちが生まれ変わったのはいつでしょうか。

イエスさまが昇天され、聖霊に満たされてからです。

個々の個性的な性格が無くなった訳ではなく、聖霊に満たされ、その性格は用いられたのです。

情熱的で短気で気性の荒く勝ち気な人も、行動力を用いられるのです。調教された名馬のように目的に向かって一心に走る者へと変えられたのです。

アンデレのように物静かな人は、霊的な分別力を用いられます。

目立った性格の持ち主でなかった弟子たちも、イエス様の死後、他の弟子たちと共に遠くまで伝道に行ったという伝承があります。

親しみやすい人柄は、人と人を結び合わせコミュニティーを形成する働きとして用いられるのです。

自分の性格はどのような性格でしょうか。

はぁ・・とため息がでるかもしれません。

ピリポのような穏やかな性格の人が、ペテロのように情熱的な伝道ができるように・・と。

気性の荒いヤコブとヨハネが、ピリポのように誰からも受けいれられる人格に・・・と。

「主よ。私の性格のこの部分・・どうか直してください。」と祈るのではなく、

「主よ。私の性格この部分、自分ではどうしようもできないこの部分・・・主によって用いて下さい!」と祈りましょう!

主は、個々をデザインされたのです。一人一人違うように造られたのです。

それを主の名によって、用いられるように祈りましょう!

皆がピリポのような穏やかな性格になる必要性はないのです。

それぞれに合った仕事が与えられるのです。

自分がどのような人格なのか・・より、誰によって用いられるかが重要なのです。

自分の性格を否定する事を辞め、その性格が変えられ整えられるようにではなく、今ある性格を用いられるように祈りましょう!

今日も、主と共に歩み、主を選ぶ一日をお過ごしください!

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