主が喜ばれた嘘【出エジプト1:15-22】

2023年

 また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに言った。そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。

彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」

しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。

そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼び寄せて言った。「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」

助産婦たちはパロに答えた。「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」

神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった。

助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。

また、パロは自分のすべての民に命じて言った。「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」

出エジプト1:15-22

嘘をつく・・・っていけない事ですよね?

しかし、今日読んだ聖書の中に、嘘をついて主に祝福された人を見つけました。

しかも、軽い嘘ではなく、全力でついた嘘です!

イスラエルの民は400年以上もエジプトで奴隷として過ごしました。

奴隷として連れて来られた時は、イスラエルの民は70名程だったのに、長い奴隷生活の中、民は成人男性だけで60万人にも増えたのです。(出1:5/12:37)

当時、世界で最強とされていたエジプトも、イスラエルの民の数が膨れ上がる事に不安を感じ始めたのです。反逆されたら国が乗っ取られるかもしれないからです。

エジプトの王は、イスラエルの女性が子どもを生み、男の子の場合、直ぐに殺すように命じたのです。

しかしその命令を受けた助産婦たちは、子どもを殺す事をしませんでした。

これは今の時代の私たちが聖書を読むと、「そうなんだ。殺さなかったんだ・・」と思いますが。

この当時の助産婦にとっては、殺さないという選択は、

王の命令に背いている訳ですから、死刑にされる可能性があるのです。

王は自分が命令を下したにも拘らず、男の子の人数が減らない事実を知り、助産婦に問い詰めます。

助産婦たちは「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」と答えました。

全力で嘘をついたのです。

この噓は、主を恐れてついた嘘なのです。王を恐れてではなく、自分を守る為ではなく・・

もしも自分がこの時代の助産婦だったらどうするだろう・・・と考えました。

殺す事も難しいし・・でもその時、自分に小さい子どもがいたら・・自分が死刑になれば、誰が我が子を育てるんだろう・・などと考えてしまうかもしれません。

もしくは、自分の知恵を振り絞って・・・助産婦を辞め逃げるかも・・・

もし、自分がエジプト人の助産婦なら・・殺す事も自分も死ぬことも出来ない・・だから助産婦を辞め、子どもを殺すという罪を犯さない選択をするかもしれません。

今、聖書を通してこの出来事を俯瞰(ふかん)して読んで見ると、この命をかけて主を恐れた行動は、「助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。」とあります。

助産婦たちの嘘、主を恐れた行動は、主に喜ばれたことが分かります。

・・・私がその時代に生きていたら、殺す事も死ぬことも選択できず、助産婦を辞め、、、

そして私は、自分は知恵のある選択をしたと満足し、「主は私を罪から守って下さった」と言っている様に思えました💦

しかし、私が助産婦を辞めた所で、他の誰かがこの選択の重荷を背負う事になるのです。

自分は知恵のある選択をしたのではなく、他の人に責任転換しただけなのです。

ちっとも知恵のある選択ではないのです。

・・・多分、私はこのような勘違いをしながら、今まで信仰生活をしているんだろうな・・と思いました。

もしくは、今からもそのような勘違いな選択をし、その選択に満足してしまうかもしれません💦

もっと大胆な信仰が欲しい・・・

私の信仰は、人の目や人の評価、私の常識の中に、主を閉じ込めて閉まっているように思います。

最近、出会ったフレーズ・・「屋根をはがす信仰」を持ちたいです。

「クリスチャンカウンセラーのはんなさん」が書かれていたブログで「屋根をはがす信仰」について書いてありました。⇩

『屋根をはがす〜問題の突破口を見出す信仰〜』
沢山のblogの中から出会ってくれてありがとうございます。 今日は聖書の話からです。 (聖書を読みながらのモーニングコーヒータイムが幸せ♡)イエスキリストが滞…

はんなさんのブログを読んで、もし私ならどうしていただろう?

絶対に癒しを得て欲しい友がいたら、どうしていただろう?と考えた時、

人を掻き分け、主の前にひれ伏し、友の癒しを懇願する・・

もし、人が大勢で掻き分けて入れない場合、主が出てくるまで待ち続ける・・

ここまでが私の限界の発想だと思います。

主は私たちの心と信仰を見られる方です。

私は、自分の信仰も、主さえも、小さい枠に閉じ込めてしまっています💦

主と自分の信仰を、枠から出す事が出来ますように。

主が本当に喜ばれる選択をすることが出来る信仰を持てますように。

主と共に歩む一日をお過ごしください!

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