こうして主はききんを地の上に招き、パンのための棒をことごとく折られた。
主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。
彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中に入った。
彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。
王は人をやってヨセフを解放し、国々の民の支配者が、彼を自由にした。
王はヨセフを自分の家のかしらとし、自分の全財産の支配者とした。
これはヨセフが意のままに王の高官を縛り、王の長老たちに知恵を与えるためだった。
イスラエルもエジプトに行き、ヤコブはハムの地に寄留した。
主はその民を大いにふやし、彼らの敵よりも強くされた。
詩篇105:16-24
最近、ヨセフをよく思い出します。
ヨセフの記録は、何故かヨセフの感情をあまり書いていません。
ヨセフの感情を感じる箇所はわずかです。
牢獄の中で、食事係の長と料理係の長の夢を解き明かした後、
「あなたが幸せになった時、私を思い出し、私に恵みを施して下さい」と言った時。
そして兄たちと再会した時、兄たちの誠意を試そうとする時。涙を流し声を上げて泣いた時。
それと、ヨセフが兄たちに「末の弟を連れてこい」と言ったと時、兄たちは昔、ヨセフを売った事を思い出し「我々に哀れみを乞い、ヨセフの心の苦しさを見た」と言っています。
ヨセフの話・・どうしてヨセフの叫びの様な記録が少ないんだろう・・
牢獄で夢の解き明かしをした時、必ず私を思い出して下さい!と言ったのに、2年間も沈黙されました。
ヨセフは兄たちに売られてから、再会するまで22年間も、自分の思い描く人生を歩めませんでした。
言われるがままに、されるがままに歩むしかない人生でした。
自分の人生を生きれなかったのです。
自分の人生はどうしてこのようになったのだろう・・と何度も考えているはずです。
しかし、落胆的な思いは余り書かれていません。
ヨセフは自分の意志とは全く違う場所に置かれても、努力と従順な姿勢で生きていました。
しかし、ヨセフの状況は悪くなるばかりなのです。
自分は謙遜に懸命に罪から離れ生きているのに・・・問題が自分に降りかかって来る人生だったのです。
創世記にヨセフの心情はあまり記載されていませんが、今日の御言葉に主が直接ヨセフの人生について書かれています。
詩篇を読むと、主がヨセフを選び、先駆けとしてエジプトに送られたと書かれています。
ヨセフの足には、苦しみのかせ、首には鉄のかせをはめたと書かれています。
「主の言葉は彼をためした」と書かれています。
新改訳2017では「練られた」と書かれています。
主の言葉とは、ヨセフが17歳の時に見た夢のことです。夢が実現するまで主がヨセフを練られたのです・・・
ヨセフの苦難続きの人生は、主が時が来るまで、主の御言葉が実現するまで、練られた時間だったのです。
私たちの人生は、ヨセフのように奴隷や牢獄という事はなくても・・・
ヨセフのように、懸命に生きているのに、状況が悪い方へ悪い方へと傾くことがあります。
自分の人生に希望が持てず、どん底を感じる事があります。
悩み苦しみもがく時間を過ごす事があります。
「主の時が来るまで」とはいつまででしょうか・・・
私たちが主が望まれる姿になるまで、、、練りあがるまでです。
私たちが完全に主を自分の心の王座に置くまでです。
完全に自分の自我が砕かれるまでです。
「主がなされる事は全て正しい」と完全に信頼できる時までです。
主の前で小さい者となるまでです。
私たちが思い描く小さい者ではなく・・主が望まれている小さい者となるまでです。
私たちは艱難に出合うと、主の助けの時を待ちます。主はいつ助けてくれるのだろう、いつ問題を解決してくれるのだろうと待ちます。
しかし、実際に待たれているのは、主の方なのです。
私たちは完全に自分の自我を捨てる事ができず、艱難さえ全て主が与えられていると自分の心を明け渡す事が出来ずにいるのです。
私たちが主を待たせているのです。
私たちは日々、色んな出来事が起こります。そしてその出来事を通して沢山悩まされるのです。
「悩む」と言う行動・・・
これは何処から来るのでしょうか。
悩みは自分の中から出てくるものなのです。
もしも、完全に主を信頼し、主の中で生きる事が出来るのであれば、自分の人生に起きる全ての事柄は、主が与えられたものだと、揺るぐことなく信じる事が出来るならば、
そこには悩みが入る隙間はないのです。
しかし、自分中心に物事を見てしまい自分に集中しまうと、悩みが出てくるのです。
自分中心に物事を見れば見る程、悩みの渦に巻き込まれもがくのです。
もし、完全に主を見上げて生きる事を、自分の人生の目標に置くならば、自分の目に写る自分の状況、自分が感じる状況に左右されなくなるのです。
自分の心に悩みが生じ、悩みに心を奪われていると感じる時・・・
自分は主ではなく自分に集中してしまっていると立ち止まる時なのです。
立ち止まり、もう一度主を見上げるタイミングなのです。
悩みが生じる時は、「立ち止まり私を見なさい」と言う主からのサインなのです。
ヨセフは、自分の人生は主が与えられたと信じていました。
いつからそう感じたのかは分かりませんが、
しかし主の時が来た時、ヨセフは兄たちに
「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」
と話しています。
自分の人生は、主の計画の中を歩んでいるという信仰を持てていたのです。
自分の状況に左右されず、主を信頼し生きて行きたいです。
今日も、主を見上げ歩む一日をお過ごしください!