主から祝福を貰えない理由【イザヤ30:18 】

2023年

主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。

イザヤ30:18

次男の学校の保護者が「毎週、日曜日に教会に行きたいと思ってるけど行けない」と言っていました。

話を聞くと、行きたい!と本当に思っているんだけど、疲れが溜まっていて日曜日は寝たい・・と言う思いが勝ってしまうそうです。

平日は仕事で、土日しかないゆっくりでいない生活パターン。

土曜日位は、ストレス解消のためパーッと遊びたいらしく・・遅くまで外で過ごすので、次の日・・ゆっくり寝たいのです。

話をしながら彼女は「あ・・💦」と気付きました。

「土曜日が問題か~!」と。

「でも・・土曜日ぐらいパーッと気分転換したい💦 でも遊んだら次の日、起きれない。これって自分がどちらを選ぶかってことだよね?」と

一人で話し、一人で解決方法までたどり着きました。

彼女と話しながら、数日前にブログで書いた「シメオン」を思い出しました。(2023.3.6)

シメオンはかなりの老人でした。救い主が生まれるのを誰よりも待っていたのです。

またシメオンと同様に、預言者アンナも救い主を待っていました。毎日神殿で過ごし、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたのです。

救い主が生まれるのを、待ち望んでいたのです。

東方の博士たちも同じです。イスラエルの民は皆、救い主が生まれるという事を周知していました。

しかし、博士たちは待っているだけでなく、探し求め、会いに行ったのです。

「救い主が生まれる」と周知しているのと、

「救い主を待っている」のと

「救い主が生まれるのを待ち望んでいる」のとは違いがあります。

それと同じで私たちも、

「主が自分の救い主だ」と周知しているのと、

「主を知りたい」のと

「主との交わりを渇望する」のとは違います。

私はどれ程、主日礼拝を大切にしているだろう・・

「あー明日、日曜日か~。一週間って本当に早い💦」となってしまっている事が多いです。

前日から礼拝に心を整え、礼拝に備える必要があると思いました。

礼拝を待ち望める信仰を持ちたい。

主との交わりを渇望する心を持ちたい。

心から礼拝を捧げれるようになりたい。

・・・と言う思いが生じ、また彼女と話しながら、示されたことがあります。

ついこの前、3年ぶりに友達が地元に帰って来ると言う事で久しぶりに会いました。

その知らせを聞いた時から、久しぶりの再会を期待し、会って何を話そう、あ・・あれを話したい。あの話の続きも聞きたい・・と

再会の日を凄く楽しみに待っていました。

会っている時間、ずっと楽しかったです。別れを惜しく思いました。

友達に会う方が、主に会う事より、楽しみにし期待している自分の姿。

よくよく考えたら・・「あー明日、日曜日か~。」っていう状態・・おかしいですよね。

謙遜とは程遠い思いで、礼拝に望んでいたのです💦

私も土曜日の過ごし方に心を配ろうと思いました。

礼拝は主からの御言葉を聞き、主と交わり、主の祝福を受けるものです。

主の祝福・・・棚ぼたのように、主の祝福は降り注がないと思います。

求め期待する者に、主は与えて下さるのです。

礼拝に向けて、まず自分の心の準備をし、礼拝に向けて祝福を求め祈る。

自分や礼拝に来る人達が、御言葉に触れ主を知っていく時間となるように。

私は、大きな期待を持たず、待ち焦がれる思いも持たず、主日を迎えていたのです。

何の準備もなく。

この姿は、「救い主がイスラエルに生まれる」と周知していた民と同じです。

主を待ち焦がれる信仰を持ちたい・・

土曜日は、自分の心の準備をする時間として意識しようと思いました。

期待し喜びの心で礼拝を捧げたいと思いました。

主は準備するものを用いて下さり、祝福して下さいます・・

明日は、土曜日。

今日は明日と主日の過ごし方を、主がどの様に望まれているのかを祈って求めていきたいです。

今日も、主と共に歩み、主を覚えてお過ごしください!

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