主は幾たびとなく彼らを救い出されたが、彼らは相計って、逆らい、自分たちの不義の中におぼれた。
それでも彼らの叫びを聞かれたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。
詩篇106:43-44
昨日は、主日だったのに朝から気分が良くありませんでした💦
月曜日に急用が出来たので、それを円滑に行うために次男の手伝いの必要性を感じたのです。
お願いをしたくなかったのですが、朝一番に次男にお願いをしたのです。
私の思っていた通り、次男は即答で「無理!」とバッサリ。
どうしてお願いしているか、聞いてもらえたらどれ程、助かるかなど全て話しても即答で断るのです。これは小さい時から同じ反応です。
私の時々の「お願い」を、聞いてもらえた記憶がないのです。
私の心は、腹が立つというより、寂しさが溢れてしまいました。
私は自分の時間を次男にかなり使っています。
送迎をしたり、車で何時間も待ったり、一緒に勉強したり。毎週、図書館に行って次男の好きそうな本を調べ借りて来り・・・
「私はこんなに思い助けているのに、どうして、考えもせず即答でいつも断るんだろう。」
「改まってお願いがあるって言い、助けて欲しいと言ってるのに、どうして手伝う方向で考えようとしてくれないんだろう」
「長男だったら、絶対に助ける方向で考えてくれるはず・・」
そして私の想像は、ずっと未来へまで一人旅し始めます。
「どうしていつも、この子は・・・」「これから先この子は・・」と将来まで心配になり、また、まだ起きていない未来の出来事にまで、私の心は寂しさを覚えるのです。
そして「あれ・・? 私は今、主から心が離れ、1人勝手に想像の深みに入り込んで勝手に寂しくなってる・・」と思い直し、
「聖書読もう・・」と無理やり気持ちを変えようとしました。
聖書を手にし開くと、私の聖書にはメモやしおり、写真など、いくつも聖書に挟んであります。
ちょっと整理しようと思い、その中に、すっかり忘れているメモを見つけました。
韓国にいる時に聞いたメッセージのメモでした。その中に、たとえ話がありました。
ある新任の先生が初めて小学校の担任の先生になりました。始めの授業で、先生が一人づつ名前を呼び、子どもに自己紹介させました。
ふと名簿を見ると名前の横に数字がありました。 「〇〇 112」「〇〇 120」「〇〇105」などと書いてあったのです。
それで新任の先生は「あーこの数字はIQか!」と思いました。(韓国は子どもにIQテストを受けさせます)
全ての子どもの数字が100以上だったのです。先生はその数字を見ながら「え・・このクラスは優秀なクラスなのか!」と思いました。
先生は、一生懸命勉強を教えました。そして一年が過ぎ、校長先生に「先生の指導力は素晴らしい! あなたが担当したクラスは断トツ成績が優秀だ!」と言ったそうです。
新任「それは初めから頭の良いクラスの担当になれたからです」と答えました。
校長「それはない。入学時は、どのクラスも同じぐらいの成績にしていた」
新任「優秀なクラスですよね? 名簿を見ると名前の横にIQが書いていましたよ」と答えると、
校長「それは子どもたちのロッカーのナンバーだ。」
新任の先生は、自分のクラスの子どもは優秀な子どもばかりだと思い込み、理解が出来ない子どもがいると、自分の説明が良くないから理解が出来ていないと思い、指導に熱が入ったそうです。
「良い思い込みは、一層良い方に助長する」とメモに書いていました。
確かに、「出来ないクラス」だと伝えられて担任をしたら、理解が出来ない生徒をみると、先生は自分の説明が良くないと考えるより、生徒の理解力の問題だと思いやすいと思います。
そのメモを見ながら「あ~・・・💦 という事は、良くない思い込みは、良くない方に助長するのか」と思い、
次男に対して寂しく思っていた思いが、一気にシュンと小さくなり、
あ・・・私は初めから「また断られるんだろうな」と「次男の態度を冷たく感じるんだろうな」と決めつけていました。
そんなことを思いながら、今読んでいる聖書の続きを読みました。
そして今日の御言葉に目が留まりました。
「主は幾たびとなく彼らを救い出されたが、彼らは相計って、逆らい、自分たちの不義の中におぼれた。それでも彼らの叫びを聞かれたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。」
今日の御言葉は、出エジプトをしているイスラエル人のことを指しています。
イスラエル人は、主にいつも不服を言い、主はいつも与えました。恵みを受けても直ぐに忘れ、不服が止まる事がなかったのです。これを繰り返したのです。
私も、同じことを繰り返してしまいます。
私の子どもに対してしてあげている事と、子どもの態度を天秤にかけ、1人寂しさを覚えるのです。
罪も同じです。同じことを私は繰り返すのです。
罪を主に示され、悔い改め、許されても、また同じことを繰り返すのです。
私は主に、相測って逆らい、自分の不義に溺れているのです。
私はお願いをする度、「また、次男は・・」と思い込んでいます。思い込んだ上で、その通りになると昔の出来事を思い出し、寂しさを何倍にもして、1人心を痛めるのです。
「あ・・私が知らぬ間に、次男を良くない方向に助長させているんだ・・」
主は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と言って下さる主。
次男を「高価で尊い」という主の目で見て、主が望まれている方向に助長させないといけないのに・・・私が足を引っ張ってるのかも・・・
主は、「あなたどうせ、また罪を犯すんでしょ」「またどうせ、良くない方向に考えるんでしょ」「いつもあなたは・・」とは言われません。
同じことを繰り返し、もがく私を見て、主は私の苦しみに目を留められるのです。
はぁ・・・💦
今日からは、良い方向に助長出来るように、心を改めたいと思います。
次男だけでなく、夫に対しても、隣人に対しても・・・
今日も、主の恵みの中、導きの中、豊かな一日をお過ごしください!